ラトゥスが出かけ、コーラルは手がけていた刺繍の仕上げに取りかかった。

面倒な箇所が残っていて、はじめる前からうんざりした気分だ。

集中するにつれて、姿勢が前屈みになっていく。
何度か気を取り直して、椅子の上で背筋をのばした。
肩が凝ってきているのに、思ったほど進んでいない。

……いやになってきちゃった

集中できず、気もそぞろになっていた。

そうするうちに、あくびまで出てくる。

ふああ、とゆるみきった声が漏れたところで、コーラルはラトゥスが用意してくれたつくり置きのお茶があるのを思い出した。

コーラルは休憩することにした。

台所に立ってみると、くう、とおなかがちいさく鳴った。

用意されていたクッキーをかじる。
立ったままで行儀は悪いが、ラトゥスの焼いていってくれたクッキーはおいしい。
甘みは弱いが、木の実などがかならず入っていて、コーラルは大好きだった。

もう一枚クッキーを頬張り、保温機からポットを取り出した。
のんびりポットからお茶を注ぐ。
そのお茶がすっかり冷めていて、コーラルははっとした。

自分が考えていた以上に時間が経過している。

……ラトゥス?


買いものに出たにしては、戻るのが遅い気がした。
コーラルが気がついていなかっただけで、もう帰宅しているかもしれない。
ラトゥスもなにか刺繍を刺しているかもしれなかった。彼女は手仕事に集中すると、物音を立てなくなる。

ラトゥス、いるの?

いてほしい、と思いながら、コーラルは声を大きくした。
リネン室やラトゥスの部屋をのぞいたが、老女はどこにもいなかった。
コーラルは廊下にある明かり取りの窓、そのカーテンに手をかけた。

カーテンをそっと引くと、日没が近いのがわかった。
ラトゥスが家を出たのは昼過ぎだ。
こんなに遅くまで戻らなかったことは、これまでに一度もない。

なにか……


あったのか。

つぶやきかけたコーラルの耳は、ひとの歩く足音を拾い上げた。

ラトゥス?

ラトゥスが帰ってきた――と顔を輝かせたのも束の間、その足音に違和感を覚えた。

コーラルは身を強張らせる。

それはざくざくと大股に歩く足音だった。
玄関ポーチのあたりから聞こえている。
コーラルは足音を忍ばせてそちらに近づいた。

耳を澄ませるまでもなく、誰かの歩く足音が聞こえていた。

間違いなく、誰かがいる。
ラトゥスの足音ではない。
老女のそれよりも、ずっとしっかりとした重みのある音だ。

身構えていると、ドアがノックされた。

すいません


若い男の声だった。

どうこたえよう――迷ったコーラルの鼻先で、あっさりドアが開かれた。

ああ、すいません、こちらの方……ですよね


大きな荷物を抱えた、赤毛の青年だった。

あ……あの

お孫さん? おばあさん、村で具合悪くしちゃって


さーっと血の気が引いたコーラルの前で、彼は荷物をテーブルに置いた。

いまから出られる? 念のため荷物持って来たけど、まだおばあさんには横になってもらってるから

な、なにが……


ともすればふるえそうな声で、コーラルは尋ねた。
青年は軽く微笑む。
安心しろ、とでもいうような、やわらない笑顔だった。

買いものに来てた店で転んで、わきにあった柱にぶつかっちゃったんだ。気絶したんだけど、ちょっと前に起きて

それで、ラトゥスは大丈夫なんですか?

ラトゥス?


 怪訝そうに青年は首をかしげた。

ああ、お孫さんじゃない?

その、同居して――

おばあさん、ひとりで帰れます、の一点張りでさ。一緒に来てもらっていい? 帰るにしても、大荷物は無理だから……先に届けに来たんだけど

お医者さまはなんて……?

今日明日くらいは、動かないでゆっくりしてもらった方がいいって


膝から力が抜けそうになり、ふらついたコーラルの肩を青年がとっさに支えた。

念のため安静に、っていう話みたいだから、落ち着いて

かたわらにあったストールを手に、コーラルは台所の火を落とすと青年に続いて家を出た。

夕焼けで赤く色づいた森を、コーラルは進んでいた。
歩きながらストールを頭から被る。
フードになるようにストールを巻くコーラルを、先導する青年は不思議そうな目で振り返っていた。

寒い? もしかして、体調悪かった?

いえ……あの


 コーラルは目を逸らした。

詮索するみたいなこといって、ごめん。具合悪いから、おばあさんがひとりで買いものに来てたのかなって……俺、ライオネス


視野のすみ、彼は自分の胸を指さしていた。

あ……あの、私、コーラルです

心配だろうけど、先生も大事じゃないっていってたから、ね?

きっとひどい顔色をしているのだろう、ねぎらうライオネスの言葉に、コーラルは素直にうなずいた。

ざくざくと、まだ明るくランプのいらない道を行く。

初対面の青年――ライオネスと一緒に。

ラトゥスの怪我は心配だが、まさか自分がおもてに出るなんて、思いも寄らなかった。

彼は自分の目の色に気がついただろうか。
家では明かりを灯していたし、きっと気がついている。
邪眼だと思い当たっただろうか。
彼になにか異常が起こっていなければいいが。

様々な考えが頭をよぎっていく。

コーラルの目は、少し先を歩くライオネスの大きな背中に吸い寄せられた。

緊張していた。
そして胸が高鳴っている。

ラトゥスが怪我をしたなんて、ぞっとする出来事だ。だが医師のところにいるのなら、安心していてもいいのかもしれない。

ライオネスは時折コーラルを励ますような声をかけてくれる。

もうちょっとで着くよ、眠ってなければ、おばあさんとすぐ会えるから

はい、ありがとうございます

それに応じるたびに、コーラルは心臓が強く打つのを感じた。

家族やラトゥス以外と、はじめて間近で言葉を交わした。

コーラルは一度家の方を振り向いた。

すでに家は木々の枝葉の先に隠れてしまっている。

夕暮れ時とはいえ、まだ明るいといっていい森があった。

この森にやって来たとき以来の光景だ。

生家からの転居の際、コーラルは馬車に乗って森まで送られた。
その後目深にフードを被り、夕方の森を歩いた。どこに潜んでいるかわからない人目をはばかって顔を出せなかったのだ。

うつむき加減ではあったが――コーラルにとってそれは、貴重で刺激にあふれた体験だった。

土も草も太陽の光を受け、みずみずしく映った。
空気も温かく、心地よかった。

毛足の長い絨毯や、肌触りのいいシーツとクッション――部屋にこもるコーラルのために、屋敷では調度の整えられた部屋が与えられていた。
つねによい香りの花が活けられ、出版されたばかりの書物を与えられ、遠い異国の珍しい菓子が届けられた。
明るい森には、これまでに感じたことのなかった清浄な空気があった。

それはコーラルが暮らした部屋にはなかったものだ。

どこまでも広がる空間に、森をはじめて歩いたコーラルは圧倒されていた。
圧倒され、開放的な気分で大きく息を吸いこんだものだった。
清廉な空気に、そのときコーラルは涙がこぼれそうになっていた。

屋敷の部屋は、コーラルを慰めるための物品や気遣いで充ち満ちていた。
すべてコーラルのものだった。

だが森は違う。
誰のものでもなく、誰に対しても静謐でみずみずしい。
訪れるものを許容する――森は公平だ。

暮らす家を紹介され、コーラルはそこが木でできていて、周囲の森の木々によくなじんで見えることにほっとしていた。

屋敷から出ることが許されて以来、コーラルは内実怯えていた。
それまでコーラルは、屋敷の外などなにも知らずに成長してきたのだ。
まともに他人と接したこともない。整った部屋だけが世界のすべてだった。

いまライオネスの背を追うように歩きながら、コーラルは夕暮れの森を見上げた。
樹冠の向こう、空は朱をはいたようになり、雲ひとつない。

美しかった。
こんなにも美しいものを知らなかったことが衝撃的で、目の当たりにしていることもまた、衝撃的だった。

もうすぐだよ


声をかけてくれたライオネスに、コーラルはうなずいた。

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