わたしは彼のことを「愛している」と言わない。
 それが彼――アベルとの約束だし、例え死んでも胸内に残るこの感情は、そんな陳腐な言葉で言い表せるものではないのだから。

 時は19世紀末。
 舞台は、第三共和政が発足してまもない混沌とした情勢のフランス。

 人形師の孫として生まれたわたしは、家族から人形以下の扱いを受けていた。幼いながらも、人形師であるおばあちゃんから一心に愛される人形たちが羨ましくて仕方なかった。


 それならいっそのこと、人形のように感情を手放してしまいたい。そうしてしまおう、そうしたら傷つかなくてすむんだ――そう思っていた。


 絶望のさなか、金のプリマと呼ばれるオペラ女優との出逢い、そして人間よりも人間らしいビスクドールのアベルとの出逢いが、わたしに変革をもたらした。


 人は正反対の存在と出逢うと、風見鶏のようにいとも簡単に方向が変わってしまうようだ。





 そう日記の中で語る彼女の名は、アリシア・バレ(Alicia Barret)。
 箒のBalai(バレ)ではなく、人間としてのBrret(バレ)で、後世に残る人物となる。


 生まれてこの方、誰にも愛されずに生きてきたアリシアに、とある出逢いが待ち受けていた。

 時を経て、彼女――アリシアの日記を子孫が見つけた。
 そこには、アリシアの生きてきた軌跡が綴られていたのだ。

名もわからない貴方へ

 私、アリシア・バレは、もうじきこの世を去ろうとしています。
 誰でもいい。私のちっぽけでいて、苦々しい後悔と心躍るような感動を知ってもらえるなら。


 私は後世、「夢遊病患者」とか「妄想癖のある変人」と語り継がれるかもしれない。だから、この日記をもってして反証したいの。


 人間のように振る舞う人形は、本当に存在するの。
 でも、未来に同じような人形が出てこない可能性があるの。哀しいことにね。


 人形に魂をこめることのできた人形師は、今までひとりしかいなかったし、もうとうに亡くなってしまったから。


 作家のヴィリエ・ド・リラダンもそのことを知っている。リラダンは私の大切な友人だから、人形のアベルのことをを全て話したの。


 彼の執筆した小説、『※未来のイヴ』で「アンドロイド」という言葉が出てくるけど、あれは私の話がきっかけでつくった言葉みたい。

※未来のイヴ…1886年に発表された、フランスの作家ヴィリエ・ド・リラダンによるSF小説。

 人造人間に対して「アンドロイド」という名称を初めて使った作品。

 どうか遠い未来に「アンドロイド」が生まれることがあったら、このことを覚えていてほしい。


 人間と人形は造られた物質が違えども、互いに分かりえたら共存できるということを。


 "La vérité est au fond du puits(真実は井戸の底にある)"というけども、本当に真実を見つけるのは難しいわ。あなたに、その真実が見つけられるかしら。


 ……ああ、手が震えて字がおかしいわ。
 永遠に生きて、この世の行く末を見守りたかったわ。


 やっぱり死ぬのは怖いよ、アベル。
 涙が溢れて、止まらないの。
 わたしは、あなたの歌姫のような存在になれたかしら?


 これは仕掛けられた運命だったのかもしれないけど、それでもわたしは確かに幸せだった。


 わたしの錆びたゼンマイを回してくれたのは他の誰でもない、アベルだったのよ。


 それこそ最初は弱々しい声しか出なかったけども、わたしは人生を謳歌しても良いのだと教えてくれた。



 手足が冷たくなって、もうわたしの体じゃないみたい。末端から、死が襲いかかってるの。
 ああ……やっぱり、わたしは「生きていたんだ」。
 死を前にして、生きていたことを、本当の意味で知ったんだ。


 最後まで生にしがみつくわたしを、どうか嘲笑ってほしい。
 嘲笑われることさえ、生きている証となるのだから。

Alicia Brret

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