東雲家の一戸建てに訪れて最初に紫月を出迎えたのは、さっきよりもさらに元気な東雲宗仁の飛び蹴りだった。
玄関の手前で大の字になって空を仰ぐ紫月の目尻から涙がちょろりと垂れる。
東雲家の一戸建てに訪れて最初に紫月を出迎えたのは、さっきよりもさらに元気な東雲宗仁の飛び蹴りだった。
玄関の手前で大の字になって空を仰ぐ紫月の目尻から涙がちょろりと垂れる。
ねぇ、今日はホント何なの?
あんたは俺の顔面に恨みでもあるの?
あゆをこんな遅くまで
連れ回しおって
宗仁が腕を組んで鼻を鳴らす。
しかも彼氏面で家まで送ってくるとか、恥知らずを通り越して犯罪者の資質を感じるぞ。お主、さては前科持ちだな?
お祖父ちゃん、いい加減にしなさいっ
あゆが腰に手を当ててぷりぷり怒っている。可愛い。
葉群君は恥知らずでも犯罪者でもないよ。ただの変態さんだよ!
帰れ!
ていうか死ね!
変態なのは否定しないけど、それはそれで何のフォローにもなってないからね
紫月は龍也の手を借りて起き上がり、苦い思いのまま弁解する。
ほら、最近なにかと物騒じゃないっすか。だから女の子には他の誰かがついてやらんと、ご両親もあんたも不安じゃないかって思ったんす
ワシの孫はそこらの女子と違って、心配されるほどヤワでも無いわい。
そんな台詞は一度でもワシにサシで勝ってから吐かすがいい
ほほぅ……?
いまの一言で、紫月の闘争心に小さな火が灯った。
そこまで言うなら本当にラウンド2やってみます?
上等じゃ。お主とは決着を付けたかったところだからな
ちょっと、お祖父ちゃん!? ていうか、葉群君も――
東雲さんは口を挟まないでくれ。これは俺とこの爺の決闘だ
出会ってすぐにいきなり襲われたのは気に喰わないが、だからといって白黒がつかないのも同じくらい納得がいかない。
葉群紫月という男子は、これでも意外と負けず嫌いなのだ。
勝負だ、クソジジイ。ちょっと表出ろや
良かろう。身の程を思い知らせてくれる
宗仁は玄関の奥に引っ込み、身支度を整え始めた。
宗仁が決闘の場所に指定したのは近所の広い公園だ。最近は街中のパトロールが強化されたとはいえ、武器さえ使用しなければ、ここでいくら二人が喧嘩していようと『空手の練習』と説明すれば事なきを得られる。
紫月と宗仁が距離を開けて向かい合うと、外野に突っ立っていたあゆが忠告する。
お祖父ちゃん、あんまり葉群君を苛めちゃ駄目だぞー
分かっとるわい。ちょっと年季の差を見せつけるだけじゃ
言ってくれるじゃねぇか
紫月がくいっと顎を上げる。
精々、ハッタリじゃないことを祈るぜ
威勢の良さは認めてやる
えーっと……じゃあ、始めますよー
気乗りしない様子で、レフェリーに指名された龍也が片手を挙げる。
試合形式は鳩尾以外の急所狙いと噛みつきが反則のバーリトゥド。両者のいずれかが戦闘不能になった時点で試合終了。もしくはこっちの判断で試合を止めることがあります。双方、異議はありますか?
無い
右に同じ
二人がファイティングポーズを取り、腰をやや低めに沈める。
それでは――始めっ
両者の踏み込みは鋭い。すぐに間合いに入り、手首と体勢の奪い合いから入る。これは剣戟で言う鍔迫り合いと同異議だ。
宗仁の身のこなしは想像以上に身軽で鋭い。年齢を全く感じさせない動作は、むしろ年季そのものを感じさせる。
紫月が用いている格闘技はジークンドーで、対する宗仁は空手とサバットの亜流といったところか。お互い、威力の決定は打撃に依るところが多い技のぶつかり合いだ。
はーはっはっは! どうしたどうした、もっと打ち込んでこんかい!
いいんだな? 殺す気で打ってもいいんだな!?
とは言ってみるが、それが無理なのは紫月が一番良く分かっている。
やっぱりこの爺さんは強い。本物の忍者かどうかはともかくとして、やっぱり技のキレや重さは喰らっているこっちが勉強させられているようだ。
宗仁は一旦間合いから離脱すると、全身から力を一瞬だけ抜いた。
風魔戦技・踏の一、旋脚万雷
紫月は目を疑った。
どういうトリックかは知らないが、視界の中で宗仁の姿が二つに増えたのだ。
分身の術かよ! 汚ぇぞ!
言っておろうが。ワシは本物の忍じゃと!
真横から来る――直感的に悟って反応すると、盾にした腕に宗仁の拳が当たる。
ほう? やるではないか!
いま視界に映った二つの分身をフェイクにして、視界から外れていた本体が死角から攻撃する。これが旋脚万雷とやらの攻撃手順か。
ならば次じゃ!
風魔戦技・打の一!
喰らうかよ!
紫月は大きく後ろに跳ねて宗仁の間合いから外れる。今回のルールなら、どんな技も腕が届かなければ当たらない。
しかし、甘かった。
宗仁は既に、紫月の足元でしゃがみ込んで、拳に力を溜め込んでいたのだ。
天嵐掌!
紫月の顎目掛けて伸ばされた腕が螺旋する。腰の回転と腕の螺旋をかみ合わせて打撃の威力を上げる技か。
ならば、対処法は簡単に思いつく。
おらぁ!
右の肘を相手の掌に正面から叩き込み、打撃の威力を相殺する。
これには宗仁も目を丸くして驚いた。
驚いたわい。この技を止めた奴は猪助以外におらなんだ
何?
突然出てきた名前に、紫月は一瞬焦り、動きを止めてしまった。
隙アリ!
気を逸らしたわずかな隙を縫い、宗仁の左手が紫月の鳩尾を打つ。
突如として襲い掛かる吐き気と息苦しさに、紫月は膝から沈み、地面に蹲った。
がーっはっは! ワシの勝ちぃ!
いぇーい!
卑怯な手で勝ったにも関わらず、宗仁はまるで子供のようにはしゃいでいる。
ぐっ……きたねぇぞ、このジジイ!
戦っている最中に別のことに気を取られたお前さんが悪い。中々どうして筋は良いのに、まだまだ未熟じゃのぅ
こ・の・や・ろ・う……!
納得がいかねぇ。たしかに鳩尾以外の急所は狙っていないし、口頭での攻撃は反則に含まれていないが、だからといって言っていいことと悪いことがあるだろうが……!
おやおや、
随分と無様だな
突如として聞き慣れた声が頭上から降り注いだかと思ったら、見覚えのある制服姿の少女が正面から紫月の有様を見下ろしていた。
特徴的なポニーテールに端正な小顔。いつもと変わらない無表情。
彼女は貴陽青葉。紫月の数少ない友人の一人だ。
あ……青葉? どうして君がここに?
学校の帰りに通りかかったからだ。
それより、これは一体どういう状況だ?
たしかに、事情をよく知らない通りすがりの人間からしたら、未だにはしゃいで飛び回っている老人の前で蹲る高校生男子の無様な姿は不思議にしか映らないだろう。
……ちょっと、本物の忍者の技を体感したくってね
忍者? あの爺さんが?
なんでも風魔一族最後の忍者なんだとさ
それはちょっと興味があるな
お?
宗仁がようやく青葉の存在に気付き、素っ頓狂な声を上げる。
何じゃ、お主。そこの小僧の知り合いか?
どーも。
こいつの彼女の
貴陽青葉です
さらっと嘘をぶっこく青葉であった。
何? 彼女じゃと? ……まさか
宗仁の中で変なスイッチが入ったらしい、青葉とあゆの姿を交互に見回し、最後に紫月を凝視する。
貴様……あゆという者がありながら、そこの小娘とも……ハッ!? これが世に言う二股という奴か!
世にも言わない! 前提が間違ってる! 森羅万象全てがあんたの誤解だ!
じゃあセ×レか?
発想は面白いけど
全然違う!
どーも
いつの間にか青葉の前にいたあゆが礼儀正しくお辞儀する。
紫月君の
×フレ兼愛人をやってる、東雲あゆと申します
おいコラァ!?
俺の周りには平然と嘘を並べ立てる女しかおらんのだろうか。
青葉とあゆの、平和的であり物騒でもある社交辞令が続く。
つかぬことをお伺いしますが、先程うちの紫月君の彼女とおっしゃいましたね
ええ、そうなんですよー。今日で付き合って三年目でして
そもそも紫月と青葉が初対面したのは二か月くらい前の話だ。三年どころか三か月記念日すら迎えていない。ていうか記念日って何だ? いちいち記念日の度に祝ってたら彼氏の生活能力がみるみるうちに溶解するわ。祝った瞬間に呪われるわ。
そうなんですかー。私は五年目なんですよー。実はお腹にはもう子供が……
何ィッ!? 既に懐妊しておったのか! 何故早く言わなかった!?
東雲あゆよ。
君は俺に何か恨みでも
あるのか?
そしてジジイ、
お前はもう黙れ。
いまはまだ膨らんでないんですけど、こういうのは大きくなるまで意外とあっという間らしいですね
なるほどなるほど。では、むしろ私の方が不倫相手ということになりますなぁ
この泥棒猫がー。
いますぐ紫月君の
前から消えたまえー
お前が消え失せろ、
この世から
もうやめてくれ二人共。これ以上俺の社会的地位を失墜させないでくれ
その前に貴様を地獄へ墜落させてくれるわ!
宗仁が蹲ったままの紫月の背中にがんがんと蹴りを入れてくる。
それにしても、やけに蹴りの威力が弱いな。どうした爺さん。もうちょっと力を入れてくれないと、物理的な痛みを精神的な痛みが上回っちゃうじゃないか。それはそれであんたの嫌がらせなのかい? ねえ、泣いていい? 泣いていいよね?
紫月が涙ぐんでいると、そろそろこれが引き際と思ったらしい、青葉とあゆはプチ愛憎劇を中断した。
君は何を泣いている? この程度の冗談を真に受けるか、普通?
葉群君って、意外と冗談が通じないよねー
世の中には言っていい冗談と悪い冗談があると思う
おいコラ葉群紫月、ワシを無視するな!
宗仁が紫月の首根っこを掴んで体を持ち上げた。
お主らは少しそこで待っておれ。ワシはこの男と直々に話をつける
こうして、紫月は公園の外れにある大きな樹木の下に連行された。
すまんかったのぅ
木の傍に寄り掛かり、宗仁が息を整えながら言った。
あゆ以外の若いモンとはしゃぐのが久しぶりで、つい加減を誤ってしまった節がある。それについては謝罪させてもらおう
随分としおらしいな
こちらへの折檻が折檻になっていないと思った時点で、宗仁にも何か思うところがあったというのは大体察しがついていた。
宗仁は公園のベンチでお喋りに花を咲かせている女子二人とスキンヘッド一人を眺め、初めて紫月の前で柔和な笑みを見せた。
何故、爺婆が無駄に若造とのお喋りを好むか、お前は知っているか?
ただ単に若い奴と喋ったり遊んだりするのが好きなだけでしょ? いままでのあんたを見ていればよーく分かる
……さっきワシが見せた風魔戦技だがな
いきなり話題を変え、宗仁は遠い目をして言った。
あれは猪助と昔、遊びと称して生み出した曲芸技なんじゃ
曲芸? あれが?
普通に実戦レベルで強力な技だろうに、あれが遊びだと? にわかに信じられない。
普通の忍は決して技をひけらかすような真似はしない。だからこそ、あれはワシと猪助にとっては遊びみたいなものなんじゃ。
ところで、お前さんはさっき猪助の名前に反応しておったな。もしかして、あゆの人探しに加担でもしておったか?
知っていたのか
まあな
元気な分だけ知恵の巡りも早いのだろうか。いまの宗仁は年相応に老獪だった。
こうなると話が早い。葉群紫月よ。悪いが、このままあゆの人探しを手伝ってはくれまいか。あの子がワシを想って時間を割いている分、お前の行動は全て無駄だ、だなんて口が裂けても言えはせん
どうやら宗仁には人探しの結末が見えているらしかった。
元々、調査期間が過ぎたらこの依頼も終了する予定だったんだ。頼まれなくても仕事の内ならこなしてやるさ
そうか。さすがは黒狛探偵社の葉群紫月といったところか
……!?
死角からフックを貰った気分だった。この爺、いつの間に俺の素性を調べたんだ!?
爺さん、あんた何でそのことを――
ポニーテールのお嬢さんには黙っておいてやろう。知られたくないんだろ?
……そうしてくれると、助かる
龍也とあゆにこちらの素性が割れてしまったのは仕方ないとして、青葉にだけは絶対に知られたくない理由があった。もしかしたら、宗仁はそれも知っているのかもしれない。
宗仁は紫月の正面に回り込んで、固く握り込んだ右拳を腰だめに引いた。
さて、依頼料の代わりだ。お前さんには風魔戦技の最終奥義を伝授してやろう
いきなり最終奥義かよ!?
ムリムリ!
俺、影分身も螺×丸も使えないから!
案ずるな。難しい技ではない
宗仁は右拳を鋭く押し出し、紫月の額にぴたりとくっつけた。
風魔戦技・最終奥義、クソジジイの拳骨じゃ。あゆにはありとあらゆる風魔戦技を叩き込んであるが、この技だけは何があっても教えるつもりは無い
……いや、やっぱり俺には難しいよ
おそらく風魔戦技とやらは数々の超人芸の集合体だ。その中で最後を名乗る技が、ただのワンパンチだなんて馬鹿げているにも程がある。
だからこそ、この拳骨は彼にとって一番大事な技なのだろう。
そいつはお前さん次第じゃ
宗仁が拳を引いた。
こいつを打つコツを教えてやる。
開いた掌に願いや想いを乗せて握り込み、
腕はあくまで重々しく振り上げ、
祈るように拳を振るう。
この三拍子があって、初めてこの技は本当の意味を持つようになる。いざという時は思い出してみるといい
覚えていたらな
話が一区切りついたところで、紫月は口をぽかんと開けた。
どういう話の流れでああなったのかは知らないが、分身しまくったあゆを青葉と龍也が必死に追い回していたのだ。
なあ爺さん。あれ、本当にどうやってんの?
教えたところで理解出来るか?
全く以てその通りだ。それに、理解したとして体得出来そうな技でもない。
……やっぱいいや
時刻は既に、夜の八時半を回っていた。