エヴァリーンには幼馴染がいる。
名はトール。昔、ミヒガン伯爵邸の隣の家に住んでいた、エヴァリーンと同い年の少年だ。
トールは、臆病で人見知りで、長い黒髪でいつも顔を隠して、俯(うつむ)きがちで歩いていた。近所の悪童(あくどう)に「根暗で陰気」と虐(いじ)められているのを、エヴァリーンが庇ったのが出会いだった。その日以来、二人は仲良くなった。
以来、毎日のように二人で陽が暮れるまで遊んだ。
トールは、変わらず臆病で引っ込みがちだったけれど、よく見ると所作の一つ一つが洗練されていてきれいだった。頭の回転も速いし、運動神経も悪くない。幼いエヴァリーンにも、彼が良い家で生まれ育ったことは窺えた。
トールは無口で、自分のことも家族のことも一切語らなかった。人づてに聞いた話だと、実家は王都にあって、事情で田舎の知り合いに預けられているらしかった。
そんな事情、子供だったエヴァリーンには、どうでも良かった。
ただ友達が増えたことが嬉しかった。
十歳の時、トールは王都にある生家に呼び戻され、離れ離れになってしまった。
八年経って、トールを名乗る美青年が、エヴァリーンの元を訪ねてくるなんて思いもしない。

急きょ、応接間に場所を移し、ティータイムを再開した。
お茶は淹れ直し、来客用に細やかだが菓子も用意する。
トールは、親指と人差し指でティーカップを抓(つま)んで、優雅に紅茶を啜(すす)った。

とても美味しい。懐かしい味だ。

トールは昔から、このお茶が好きだったものね。

バニラが香るフレーバーティーは、ご用達の茶屋から仕入れている特注の品だ。
お茶と言えば、まずはこれが出てくる。
ミーナは、昔を懐かしむよう目を細めて笑った。その隣で、エヴァリーンは、怪訝(けげん)な顔つきで紅茶を飲んでいた。
所作は完璧だ。立派な貴公子にしか思えない。
けれど、気を許してはいけない。詐欺師は、一流の役者だ。立ち振る舞いだけででは、いまいち決め手に欠ける。

彼が、本当にあのトールなのか。

エヴァリーンの知っているトールは、綺麗な金の髪の、王子様然とした美青年ではない。背筋を伸ばして、堂々と町を歩くような子でもなかった。いつだって、エヴァリーンの後ろに隠れて、もじもじしていた可愛らしい少年だったはず。
時が経てば人も変わるというが、ここまでの変貌(へんぼう)ぶり。いきなり信じろと言われても無理だ。
―――トールが、バニラを入れた紅茶が好きなのは事実だけれど。

エヴァリーン、どうしたの?

いいえ。何でも。

エヴァリーンは、視線を逸らした。琥珀(こはく)色の水面に、強張った自分の顔がくっきりと映っている。
明らかに、疑っているのが見て取れる。何でもなんて、不自然だ。
これでは、向こうだって警戒するはずだ。

ねえ、本当にトールなの?

本当だよ。昔の面影はあまりないだろうけど。

あまりどころか、欠片も感じられない。
様変わりしすぎだ。
町人が、王子様になったみたいで、違和感は拭いきれない。

どうしても、エヴァリーンに会いたかったんだ。

私に?

詐欺令嬢に一体、何の用事で?―――疑問は膨らむばかりだ。
静かにカップを置いて、トールは一転、真剣な顔で話し始めた。

僕の本当の名前は、テオドール・ルヴァン。ルヴァン侯爵の二男だ。

ルヴァン侯爵といえば、当主は現国王の従兄弟で、豪商として有名だ。社交界でも話題の人物で、華々しい噂を度々耳にする。
当主には、二男一女がおり、長男は時期当主、長女は王家へ嫁いだはずだ。

僕の母は父の愛人だった。小さい頃に母が亡くなって、父に引き取られた。けど、義母(はは)が僕のことを目の敵にして、色々あったものだから、知人の家に預けられていた。

それが、あの家だった……。

愛人の生んだ次男が、生家でどんな仕打ちをされてきたか、想像に難くない。
トールが生家から出されたのは、彼の身を守るため。侯爵が父親としてできる精一杯だったのだろう。
それで、トールが寂しい思いをしたとしても。

兄が後継者として正式に指名されて、僕は生家に戻った。家族との蟠りも、大分薄れた。今は、兄の補佐をしながら、新事業の立ち上げようと思ってる。

困難を乗り越えた末、強く賢くかっこよく成長した幼馴染は、エヴァリーンにとってもはや遠い世界の住人だった。

それを報告するために、わざわざ?

それもあるけど、本命はね……。

トールは、神妙な顔をしてエヴァリーンの前に膝をついた。唐突に両手を握られて、心拍数が跳ねあがる。

エヴァリーン、約束通り結婚しよう。

へっ?

して下さいじゃなくて、しよう?
しかも、約束通り?
―――突拍子もないことを言われて、一瞬心臓が止まった気がした。
投資とか、寄付とか、お金が絡む話だったら保留にしようと考えていたはずが、衝撃のあまり思考がぷつんと切れた。

まあ、そんな約束があったのね! 素晴らしいわ!

知らない。まったく覚えてない。そんな言葉すら出てこない。
どこか別世界の、別人と間違えているのではと、現実味に欠けた想像までしてしまうくらい。訳が分からない。
エヴァリーンそっちのけで、周囲は大盛り上がり。エヴァリーンが正気に返ると、すでに話題は子供部屋の壁紙の色になっていた。

ちょっと待って!

どうしたの? エヴァリーン。

どうしたも、こうしたも……いきなり結婚なんて、出来ない。

しんと、周囲が波を打ったように静まり返った。
エヴァリーンが受けたショックを、周りに倍にして飛び火させてしまったようだったが、後には引けない。
この話は可笑しい。いや、美味しすぎる。
あのトールと結婚の約束なんて、まったく記憶にない。トールは、いつもエヴァリーンの後をついて歩く、可愛い弟みたいな存在だった。
仮にあったとしても、トールと出会ったのは子供の頃で、約束もその頃のもの。相手は『詐欺令嬢』と名高いエヴァリーンだ。子供の頃の他愛ない約束を守って、結婚しようなんてどう考えても変だ。
蓼(たで)食う虫も好き好きとはよく言う。
けれども、蓼食う虫というのは、たいてい訳ありだ。
少なくとも、エヴァリーンが出会った蓼食う虫は、ほとんどが詐欺師だった。

だって可笑しいもの! よりにもよって私と結婚なんて、絶対変よ! 言っておくけど、うちにはそんなにお金はないから。結婚を餌に仲良くしておいて、お金をむしり取ろうとか、そういうのは……。

エヴァリーン、ちょっと落ち着いて!

乙女が夢にまで見るプロポーズ。そのはずが、エヴァリーンの答えは、予想の斜め上を向いた。そもそも、求婚者に対する根本的なイメージが、常識とはかけ離れている。
相手への好き嫌いよりも、詐欺を疑い錯乱する。あまりにも可愛げない反応だった。

突然で、混乱していると思うけど、僕は本気だよ。

トールは苦笑いしていたけれど、いたって真剣に告げた。
厄介なことに、一度芽生えた猜疑心は簡単に消えてくれない。それどころか、相手のやること成すこと言うこと全てに、裏があるのではないかと思ってしまう。

申し訳ないけど、約束とか全く覚えてないし。いきなり言われても無理です。

きっぱり断っても、トールは困った表情をするばかりで、まったく引かない。

君が望むなら、いくらでも潔白の証拠を集めてあげたいことろだけど、こればかりは、証明のしようがないからな。じゃあ、こうしよう。仮の婚約をしてくれないか?

仮の婚約?

そう。公には発表しない。婚約者と言っても、形だけで、友達のような付き合いから始めよう。とりあえず三カ月。僕のことを思う存分疑って、詐欺師かどうか見極めてくれ。僕は毎日君の所に通って、君の信頼を勝ち取ってみせる。君が納得して答えを出してくれるまで、付き合うよ。

エヴァリーンの答えも予想を超えていたが、それに対する相手の反応も予想外だった。
詐欺かどうか、見極めろなんて、生半可な気持ちで言えることじゃない。
しかし、すぐに手のひらを返せるほど、エヴァリーンは単純ではない。
仮の婚約は、良い案かもしれない。正直者か、嘘つきか、見極める期間をくれるなんて、破格の条件だ。
エヴァリーンは、トールのことを徹底的に調べ上げて、婚約の本当の目的を探ることができるのだ。

それなら、まあ、いいわ。まずは、三カ月、よろしくお願いします。

ありがとう。その台詞を、三か月後、まったく違う意味で言って貰えるように頑張るよ。

かくして、詐欺令嬢は人生初の婚活(世間一般とはだいぶ違う)に挑むこととなった。

押しかけ婚約者には要注意! part2

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