第3話 それを失う前のこと

ショッピングセンター防衛戦より遡ること、二時間前。


自分の額を狙うクララの左の貫き手を、マーメイは軽く小首を傾げてかわした。

空いた脇腹を膝で軽く蹴り上げ、伸びきったその左腕を捻って、訓練場の床へ背中から倒してやる。

重心の崩れた子どもの身体だ。マーメイが力を込めずとも、ベクトルを少し変えてやるだけで、放り投げることも転ばせることも他愛なかった。

マーメイ

今のがミモル型相手だったら、最初の一手でお前は首からぱっくりだ。
頭を狙うなら確実に当てろ

言いながらマーメイの目は、クララ・キューダの小さくつぼんだへそと、わずかに赤く腫れたすべらかな腹にふっと目が行く。

まだ子どもも子ども。歳は13かそこらだと聞いていたが、

クララ

......お願いします

クララは何度床や壁に吹き飛ばされても、こうして立ち上がり向かってくる。

この新入りが見せる妙な気迫の理由が、マーメイにはまだ今ひとつわからなかった。

格闘術訓練用のシリコン製のグローブとソックスで「爪の力(ウングィス)」の大気干渉を抑え、割切(かっせつ)現象で裂傷を与えないようにしてはいるものの、倒されればそれ相応に痛みはあるはずだ。

子どもには、尚更。

ルクス機動歩兵、特にプグナーレの技に長けたマーメイたち白兵戦闘員が着用するアンダースーツは、防護能力などおよそ考慮されているようには見えない、紙一枚にも等しい薄手の有機ラバー素材で造られている。

一般的な歩兵が用いる厚手のボディアーマーや、有人兵器搭乗者が着用するハイレグカットワンピースのパイロットスーツと異なり、ツーピーススタイルのそれは胸の下から下腹部までを大きく露出し、そこを覆い守るプロテクターなどは存在しない。


これは、フェーレス固有の臓器「閉じた子宮」がある下腹部を、広く大気に触れさせることに重きを置いた設計だった。

「爪の力」発現に強く関与するとされる物質フェレモンは、この「閉じた子宮」にある毛細液腺から分泌され、皮下の浅い血管を巡り四肢へ行き渡る。


フェーレスの祖先が生存本能から身に付けたこの能力は、環境変化に衣服で代用することでその重要性が薄れ、弱まっていったとされる。

大気の温度、湿度、風、そしてそこに混じる”敵”の気配。

あらゆる情報をこの下腹部で直接感じることが、「爪の力」をより強くする。
プグナーレをたしなむ者が大抵薄着であったり、露出の大きな衣服を着ている主な理由は、そこにあった。


軽く指を伸ばした右の手刀を腰に貯め、左肘を目の前まで持ち上げる。


マーメイがゆっくりとした所作でとったその構えは、手技を攻めの起点とする為に取るプグナーレの型のひとつ。

見よう見まねで同じ構えを取ったクララは、マーメイが顎で「来い」と促すのを見て、強く床を蹴り踏み込んだ。

クララ

はぁッ!

側頚を狙う斜角の手刀を、マーメイは左の手の甲で軽く下方へ弾く。

やれやれ、さっきとほとんど変わらない。

がら空きの脇腹を右の掌で打つ。
だが今度の感触は硬い。

すかさずぐいと持ち上げたクララの膝が、マーメイの掌打をばちんと防いだのだ。


予想外の方向に弾かれた衝撃に、マーメイの上体がわずかに揺らいだ。


見逃さずクララは大きくテイクバックした右手をぱっと開く。

「爪の力」で五指それぞれが刃物と化す手技。

顔めがけてまっすぐ振り下ろされるその軌道を、手首を払って捻じ曲げかわす。


だがクララは止まらない。左手も同じく五指を大きく開き、

クララ

しゅッ! しッ、しャああっ!

マーメイの顔面ただ一点を狙い、あらゆる角度で交互に振り抜く。

無駄のないウィービングで、正確なヘッドスリップで、時に掌で手首を打つパリングでクララの爪を避けながら、マーメイは顔に出さず苦笑していた。


本当に手加減なしだな、この子は。


あらゆるアーデルを確実に仕留める数少ない共通手段のひとつが、その頭部を砕くことだ。

これを受けて体系立てられたプグナーレの技のほとんども、自然と頭や首を狙う、あるいはその為の布石とするよう考えられたものが多く、フェーレスと大差ない体長のミモル型アーデル戦を想定した組手も、こうして互いの上半身を狙う展開になることになんら不自然はなかった。


だがマーメイにはどうしても、躍起になって向かってくるクララの爪に、何か他の意図が込められているように思えてならない。


たとえば、彼女がその手で直接殺したいのは、アーデルではなく自分なのではないか、と。

どうしてあたしに向かってくるんだ、と聞きかけたが、

マーメイ

どうしてプグナーレを選んだの

マーメイは少し悩み、言葉を変えて、クララにそう訊ねた。

ベンチで息を切らすクララに、冷えたドリンクのボトルを投げ渡しながら。


クララの身体の、素肌の露わなところすべてに、マーメイは目を走らせる。

しみやそばかすどころか、まだしわの一つも見当たらないクララの丸いほおは、淡いピンク色に紅潮して、ぬぐい切れない汗の玉しずくがふるふると光っている。


ぐいぐいとドリンクを飲みほした後、上を向いて小さく

クララ

ぷはっ

と息を吐いた時の、ほんのわずか緩んだ嬉しそうな顔を見ると、ああやっぱりまだまだ子どもじゃないかとマーメイは思う。


それこそ自ら戦場に、それも誰よりも捕喰者アーデルと肉薄せねばならない機動歩兵として戦場に立つには、どう考えても早すぎるのではないか、と。


クララは目を膝に落として、口元を手の甲でこしこしと拭いながら、口を開く。

クララ

どうして、っていうのは、その、うまく言えないです。
けど

小さな頭の中で、考えを言葉の形に必死に組み立てているように、クララの言葉はつたなくたどたどしい。


マーメイは急かすことなくじっと黙って、クララの言葉に耳を傾ける。

クララ

もともとそんなに運動とか得意じゃなかったけど、だからって

クララ

あんなにアーデルがいて、困ったり、ひどい目に遭わされたひとがいるんだから、何かしなくちゃって思って

クララ

もう私、ひとりですし

最後に小さく、消え入るような声で付け足した言葉を、マーメイは聞き逃しはしなかった。

だが、そこについては今はまだ問わない。聞くべきことがまだ、聞けていない。

マーメイ

入隊の時、パオ隊長に直接志願したそうじゃない。私の下に、って

マーメイ

ルクスの機動歩兵だからって、わざわざアーデルと直接やりあう拳兵科(けんぺいか)を選ぶ必要はないじゃない。
マチルダやメルの元に就いて銃器をしっかり扱えるようになれば、それだけで十分戦える

それを何故、と改めて訊ねて、マーメイは再びクララを待った。


クララはもう一度、口の中を軽く潤すようにボトルに唇をつけてから、また言葉を選び始める。

クララ

あの日、その、
マーメイさんが......じゃなくて

わずかに何かを言い淀み、言い換えたのにも、マーメイはしっかり気付いていた。

クララ

マーメイさんに助けてもらった時から、私、そう決めてたと思います

マーメイ

やっぱりあてつけか、あたしへの

しまった、とマーメイは思ったが、

クララ

......えっ?

もう遅かった。つい漏らしてしまったその言葉は、しっかりとクララの耳に届いていた。

マーメイ

ごめん、なんでもない。忘れて

マーメイが取り繕おうとしても、一度見せてしまったその本音を、クララがそのまま流してしまうはずがなかった。

クララ

そんなつもり、本当にないです。その、ごめんなさい

マーメイ

いいから、ごめんって

クララ

違います、えっと、あの、ごめんなさい

謝罪の交わし合いが途切れ、二人しかいないドリンクコーナーが、短く重い沈黙に満ちる。


先に居づらさに耐え切れなくなったのはマーメイで、彼女は黙ったままハンドタオルを肩にかけ、シャワールームへのドアへ向かう。


だが、前を通り抜けていくマーメイを引き留めるかのように、

クララ

実母(ママ)と育母(ムム)が襲われたあの時

クララが口を開いた。

クララ

パオ隊長も銃を持ってたのに、撃たなかった。
たぶん、撃てなかった

クララ

間に合わなかったんじゃなくて、きっとあいつらとママたちが近すぎて、撃ったら危なかった、とかだったと思います。

思い出してみたら、きっとそうだったんだなって、その、わかってるつもりです

ともすれば主述も前後関係もあやふやになりそうな頼りない言葉選びで、それでもクララは思うことを懸命に、マーメイに伝えようとしていた。


かつてアーデルの手により、母二人を失った日のこと。

危うく自分も喰われかけ、パオとマーメイに救われた時のこと。


精一杯に震えを抑えた、それでも時折小刻みに揺れる声で、クララは言葉を続ける。

クララ

だから、私がマーメイさんのこと、その、あの時のことがどうだとか、恨んでるとかって、思わないでください。

そんなこと考えて、プグナーレを教わってるわけじゃないです

クララ

だって、もう誰も、ママやムムみたいなことにならないように

クララ

銃じゃ届かない誰かのことを、この手で助けられるようにならなきゃって

マーメイが振り返ったその時、自分をまっすぐに見上げるクララと、視線が強く絡み合った。

普段クララが発することのない強い語調と、そこに秘められた覚悟に、マーメイは視線を外せないまま、言葉を失っていた。


そして何よりマーメイの心を揺るがしたのは、自分に向けられているとずっと思っていた恨みや怒りの存在を、クララがあっさりと否定したこと。


恨まれていると思わなくて、本当にいいのだろうか。


クララの言葉通りには、マーメイにはまだ、信じられなかった。


それは確かに、かつて少女の母を救えなかったあの時から、マーメイが胸の奥で少なからず望んでいた免罪だった。

手が、足が、技が至らなかったせいで、むざむざ母親たちを死なせてしまったと、マーメイはずっと悔いていた。


だが、そのことをこの少女は、恨んでいないと言うのだ。


本当にこの少女は、自分を許してくれているのだろうか、と。

あまりにまっすぐ自分を見る瞳に、マーメイはクララの言葉を信じかけた。信じてしまいそうになっていた。

震えているのを見られないよう、マーメイは一度ぎゅっと唇を噛む。

そして、真実をクララに確かめるために、マーメイが口を開きかけたその時。

北ブロック商業施設エリア、大型ショッピングセンター『ハートパレス』から緊急要請。
ミモル型アーデル数体の出現を確認

機動歩兵部隊はコードT。
指定の非殺傷戦闘装備にて、順次北ゲートから出撃してください

鳴り響いた警報が、わずかにつながりかけたマーメイの希望を、鋭く冷たく阻んだ。


出しかけた言葉を小さなため息に変えて、吐き出してから、

マーメイ

出撃ね、行くわよ

マーメイは自分に言い聞かせるように、そう声を張って言い、

クララ

......はい!

クララもそれを受け止めて、ベンチからすっくと立ち上がった。

ガレージへ向かう途中の廊下で、後ろを懸命に走ってついてくる足音を聞きながら、マーメイはクララの言葉を思い返していた。


恨んでるとかって、思わないでください。


母を目の前で失った少女は、自分に確かにそう言ってくれた。


母を目の前で助けてくれなかった、自分に対して。


だがクララのその言葉は、マーメイの心を本当に明るく照らすには、まだ少し、力と光に足りていなかった。


クララの中に自分への恨みが存在しないとは、マーメイにはまだどうしても思えなかった。


あの時、一秒、間に合っていれば。


その悔恨だけが、マーメイの胸に深く刻みこまれて離れない。

クララの母たちが頭から喰われ、言葉もなしに絶命した、あの時のことを思い返すたび。

この胸の、あばらの下の奥底を、重く暗い爪の形の疼きが、じわりと苦く蝕むのだ。

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