夕刻の歩道は少し早めの街灯が光り始めていた。
どうかしまして?
いや、執事が迎えにきたりしないかな、って
夢と現実の区別がつきませんの?
ジーナさんがそれ言う!?
ほんの冗談だったのに
夕刻の歩道は少し早めの街灯が光り始めていた。
要は愛車を押して歩きながら、ぽつぽつとジーナのことを聞いてみる。
どうしてそんな言葉遣いを?
どうして、って大人の女を目指して、いえ、レディのたしなみですわ
何か方向性間違ってるような
あなたこそ何か間違っているのではなくて?
何を?
あんなところでアルバイトなんて正気の沙汰ではありませんわよ
だからジーナさんがそれ言うの!?
あ、ここですわ
要のむなしいツッコミが何度目かに入ったところでジーナが足を止めた。
ここ、って普通のアパートだね
要が借りているものよりも少し年季の入っているように見える。
別にいいでしょ!
誰も悪くは言ってないよ
まぁ、いいですわ。ちょっと上がっていらっしゃい。お茶くらいは出しますわ
別に構わないよ
そこで断るな!
何で怒られたの、俺?
せっかく乙女の部屋に上がれるチャンスだと言うのに、そこで引かない! 媚びない! 省みない!
男気見せなさい!
わかったよ
夜の住宅街に響く音を立てながら階段を上り、要は一番奥の二〇四号室に案内される。
女の子の部屋って初めてだな
そんなに興味がありますの? 男の子ですわね
そりゃ、ね
あまり広くないワンルームには小さなテーブルとそれを囲むように並べられたクッションたち、年季の入った木机には要が映画でしか見たことがない羽ペンが刺さっている。
それだけなら問題はない。
なんでこんなグラビアのポスターが。しかも女の人ばっかり
それは目標、じゃなくてたまたまですわ
たまたまでポスターは貼りません!
もう、文句が多いですわね
俺が悪いの?
ジーナは要を残してガスコンロでお湯を沸かし始める。
よく見たらこの本棚にあるのもグラビアの写真集だ。見たからって成長するわけでもあるまいし
おまたせいたしましたわ。紅茶はお嫌いではないですわよね?
店長が飲んでるやつじゃないならね
差し出されたカップから届く香りが要の知っているもので安心する。
バイトあがりから何も口にしていなかったこともあって要は迷わず紅茶を半分飲み下した。
なんでこっちをじっと見てるの?
あ、いえ、なんでもありませんわ
やっぱりその話し方、違和感あるなぁ
私の勝手です
背伸びしてるようにしか見えないんだけどな
そういえば帰ってきた、ってことはジーナさんは外国の人なの?
そうですわ。あとでゆっくりお教えしますわ
後で?
はい。もう少しで
もう少しでどうなるの?
きょとんと聞き返した要の表情を見て、ジーナの顔色が少しずつ青くなっていく。
ねぇ、眠くなってこない?
いや、全然
なんでなの!?
何が?
突然ジーナが立ち上がる。
バイトあがりとはいえ大学生の夜はこれからだ。眠くなるほど衰えてはいない。
そんな。猛禽類用の強力な睡眠薬を入れたのに。地上最強の生物だって眠るはずなのに!
この紅茶に入れたの!?
要はカップの中をじっくりと見てみるが、溶けているであろう睡眠薬など見えるはずもない。
あなたいったい何者なの!? やっぱり人間じゃないわけ?
俺は正真正銘人間だよ!
もういい。こうなったら実力行使なんだから
え、ちょっと
ジーナは軽やかな動きで要に飛びかかると、手錠を取り出して要の両の手首にはめ込んだ。
何それ。どこから出したの?
暴れないでよ。暴れないで
目が怖い! って何してるの?
要の服の裾をまくり、ジーナの手が要の腹を撫でる。子供っぽい見かけとは裏腹に妖艶な手つきが要を動揺させた。
ちょっとそれはマズイって
なんですか。男としては本望でしょう?
そういうのは好きな人と、っていうか
ピュアですわね。でも残念です。私についてきてしまったのがいけなかったんですの
にやりと笑ったジーナはさらに要の腋を撫でる。
私は夢魔。サキュバスと言った方がわかりやすいでしょうか? あなたの精をいただきたくてここに誘い込んだのですわ
サキュバス
まさか私が人間だとお思いでした?
え? いや、全然
体を逃がそうと蠢いていた要の言葉にジーナの手が止まる。
え?
だってそんな角生やして赤い目してたら普通の人間には見えないよ
そんな! 私の角は人間には見えないはず
な、ならどうして逃げなかったんですの? 私は
別に異種族くらいバイトで見慣れてるし。それにジーナさん悪い人? には見えなかったし
そ、そんな……
よし、外れた!
要はかかった手錠に落ちていたヘアピンを刺して鍵を開ける。
あ、ちょっと
動画サイトで手錠の開け方見てたのが役に立つとは思わなかったよ
ちょっと待ってくださいな
ジーナの手を払いのけた要は、すぐに立ち上がって手錠をジーナにかける。
え?
それで俺は異種族との付き合い方を学んだんだ。自分がヤバイと思ったら、本能に任せて逃げるべきだって
手錠の反対側をベッドの柱にかけて、要は一目散にジーナの部屋から飛び出す。
待って! これだけは外していってー!
ジーナの叫び声を無視して、要は自転車にまたがって夜の住宅街を走り抜けた。
そんなことがあったんだー
先に教えといてくれればいいのに
まぁ、無事だったなら良かったんじゃない?
夢魔に、悪魔に襲われたというのにゆかりは道端で転んだくらいの気分で適当に相槌を打っている。
それにさ、たぶん逃げなくても大丈夫だったと思うよ。だってあの子夢魔のくせに超奥手で未だに処j
それ以上言うなー!
あ、手錠外せたんだ
あっさりしすぎ! 人間だったら餓死してるわよ!
あははは!
笑ってる場合かー!
飛びかかったジーナを華麗にかわしてゆかりが狭い休憩室を逃げ回る。
やっぱりこの二人騒がしいな。というよりジーナさんの天敵なんだな、富良野さん
と、とにかく。昨日の一件は謝りますわ。私の本能がさせたことですので、野良犬に噛まれたと思って忘れてくださいな
それって全然謝ってないよ
ですが、私諦めてはいませんから。必ず要様の精を吸い尽くして差し上げますから、覚悟しておいてください
はいはい
要は適当に頭を振って、ジーナに答える。
あれ、要『様』?
休憩室ではまたゆかりとジーナの争いが始まっているようで、要は生まれた疑問を頭の隅に追いやって仕事に戻った。