時計塔の鐘が三度鳴った。昼までは澄み切った青空が広がっていたのに、今は黒い雲で覆われ、雨が降り注いでいた。
頭上を見上げて、咲子(さきこ)は小さく溜息を吐いた。

どうしよう……

この様子では、当分止みそうにない。仕方なく、咲子は雨空の下へ駆け出した。幸か不幸か、雨はまだ小降りだ。

大丈夫! これくらいなら走って帰れる

まあ、月読さんよ

ふふふ……西洋かぶれのお嬢様は流石ですこと

小袖袴(こそではかま)が濡れるのも構わず疾走(しっそう)する姿に、すれ違う女生徒が傘越しに嗤(わら)った。
校訓は良妻賢母(りょうさいけんぼ)、淑女を理想とする女学校で、咲子のような生徒は浮いた存在だ。今更、何とも思わなかった。
水たまりを蹴飛ばし、公道を一気に走る。自宅は公園を越え、坂道を登ればすぐだ。弾んだ息を整える間も惜しんで、走った。
運悪く、雨足が強くなる。袴が水を含んで重さを増し、編上げの長靴(ちょうか)から水が滴ってきた。冷たい雨水が、しっとりと肌を濡らす感覚が気持ち悪い。
少し休もう。咲子は公園の休憩所に飛び込んで、小袖を絞った。雑巾がけの後みたいに水が滴り、咲子は口をへの字に曲げた。

ついてない

咲子の憂鬱(ゆううつ)など無視して、雨は勢いを増した。これでは、当分帰れそうにない。せめて風邪をひかないことを祈り、雨空から視線を外した。
ふと目についたのは、休憩所の傍にある小さな池。雨が水面に反射し、いくつもの輪が浮かんでは消えていく。
水姫池(みずきいけ)だ。水姫はその昔、この地に住んでいた水の精霊の名だ。
昔々、この辺りは湖で、美しい水の精霊が住んでいた。ある日、彼女は人間の男に恋をした。男と一緒になるために、彼女は精霊としての力を捨てた。湖は干上がり、消えてしまった。残ったのは、精霊との別れを惜しんで、彼女が流した涙で出来た小さな池だけだった。
その池が、水姫池だと言われている。今では、縁結びの地として有名だ。

縁結び……運命の出会い。そんなこと、あるわけない

乙女たちは、可憐な姿からは想像できないほど耳年増(みみとしま)だ。恋愛ともなると、乙女の興味と好奇心は限界を知らない。
身分違いの恋、年の差の恋、同級生とのもどかしい恋。
乙女の妄想は、海よりも大きく広がっていく。恋愛小説家も顔負けの物語を、毎日のように飽きずに語り合うのだ。
咲子とて無関心ではない。級友の話はとても面白い。壮大な恋の話を語る友人たちは、とても楽しそうだ。それに、彼女たちの話には夢がある。無限大の可能性を秘めている気がする。『源氏物語』や『落窪(おちくぼ)物語』のような、名作が生まれる日も、いつかやってくるかもしれない。
一緒に夢を見られる。だから、女学校は好きだ。陰口なんかに負けていられないと思えるのだ。
けれど、自分の身の上となると話は別だ。
運命の人と出会って、恋に落ちる。そんな自分の姿は、いまいち想像できない。
ただ、王子様への憧れがあるのは否定しない。
一度くらい、浮船や落窪の姫のような恋をしてみたい。幼い頃は、本の中に出てくるお姫様に自分の姿を重ね合せて、夢を見たものだ。
ある程度現実を知ると、夢を見ていた頃の幼い自分が恥ずかしくなってしまうのだ。

その時、水たまりの跳ねる音がした。次いで、地面を踏む音が聞こえて、視界の端に高そうな雨靴が見えた。咲子は顔をあげた。
目に映ったのは人形みたいに端正な姿だ。緑の黒髪に、透き通るような白い肌。日本袴に外国製の長靴という不釣り合いな恰好をしているのに、彼だと不思議なほどしっくりきた。
こちらをジッと見つめる漆黒の瞳。咲子は瞬時に視線を逸らした。
とくんと心臓が高鳴る。俯(うつむ)いたまま頬に触れると、熱でも出たかのように熱かった。
何、この感覚…? 戸惑いに揺れる瞳の向こうで、長靴がゆっくりと動いた。ぬかるみを進み、咲子のすぐ目の前で止まった。

どうぞ

青年が無表情のまま、傘を差し出した。
咲子は魂を抜かれたみたいに、呆けてしまった。

嘘、嘘! 嘘でしょ?

運命の出会いが本当にあるなんて……。
傘を持ったままぼうっとしていた咲子は、しばらくしてから我に返った。

ありがと……

一円

しーん

えっ!?

傘の代金だ。二十五銭はまけておこう

彼は物売りなの? 使用済みの傘を売るなんて随分阿漕な商売をしているのね。言いたいことは山のようにあるけれど、言葉にならない。
咲子の内心など知らない青年は、催促するように手を動かした。
とても言い返せる雰囲気じゃない。咲子は財布を取り出し、中身を全て青年に渡した。

今日はこれしか持ってないの

では、付けにしておく

青年はあっさり引き下がり、雨の中を帰った。
後姿を見送って、咲子は神様を恨んだ。

運命なんて、幻想だ!!

王子様は名探偵!? 其の一

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