その日も、わたしは主の食事の用意を済ませ、キッチンで自分用のパンを捏ねて焼いていた。そこへ主とは違うリザードマンがやってきた。
 わたしにリザードマンの見分けはつかないけど、このリザードマンは主より少し小さくて細い。だけど心持ち優しい声音でわたしに語りかけてきた。

親父が買った奴隷ってキミ?

……そうです

 親父ということは、主の息子なのかな?

ボクはリウェン。隣村にいたんだけど、今朝こっちの村に帰ってきたんだ

 主と違って、彼は優しくわたしに語りかけてくる。
 少し驚いた。主以外にも、この村のリザードマンたちには酷い扱いを受けていたから、こんなに優しく接してくれるリザードマン(ひと)がいたなんて、驚き以外の何もない。
 相変わらず、リザードマン特有の、ゲェゲェという鳴き声のようなものは混じっているから、言葉は若干聞き取りにくいのだけれど。

今、キミが作ってるのは何?

……パンです。わたしが食べる分の……

パン? それって美味しいの?

美味しくはないけど……他に食べるものがないので……

 パンに付けるジャムもバターもない。ただ小麦を捏ねて焼くだけのパンだから、ちっとも美味しくなんかない。でもわたしにはこれしか食べるものがない。
 主の食べ残した果物も、ほんの僅かだし、渋い皮まで齧る毎日だもの。

ボクにもちょっとちょうだい

……は、はい

 機嫌を損ねるのが怖くて、わたしはその僅かなパンを千切ってリウェンに渡した。

 リウェンは小さな鼻でにおいを嗅いでから、パクリとパンを頬張る。そしてペッペッと吐き出した。
 あっとわたしは思わず声をあげる。不味いものを食べさせてしまったと、彼の機嫌を損ねたかもしれない。
 わたしは身を竦ませ、飛んでくるであろう叱責に対する防御態勢をとった。

パサパサして喉に詰まる! ヒトはよくこんな物を食べられるね

 叱責ではなく、不味いものを口にした時の、嫌悪が彼の口を衝いて出てきた。どうやらこっちへのとばっちりは覚悟しなくても大丈夫そうだ。

……ジャムやバターを付ければもう少し美味しく食べられるんですけど、ここにはそんなものはないので。お水、いりますか?

ふぅん。あ、水、もらうよ。やっぱりボクたちとキミたちは味覚から何からまるで違うんだね

 リウェンは残ったパンをわたしに差し戻してきた。

ボクが齧っちゃって悪いけど、これは返すよ。キミの食べ物なんだろう?

 少し、ホッとした。今日の食べ物を、彼に取られなくて良かったと思ってしまったのだ。パンに興味を示すなんて、彼は好奇心が強いのかしら?

 リウェンからパンを受け取り、わたしは水と一緒にパンを食べた。その隣でリウェンは不思議そうにわたしをいつまでも見つめていた。
 このリザードマンの青年は……わたしを邪険に扱わないのかな? ほんの少し、ホッとした。

 リウェンがこの家にやってきてから、わたしの仕事は少し減った。主の目を盗んで、リウェンがわたしの仕事を手伝ってくれるのだ。
 リウェンは優しかった。わたしを奴隷としてではなく、一人の人間(ヒト)として扱ってくれた。
 前に少し漏らした、パンに塗るジャムやバターが無いという言葉を覚えていたのか、ジャムの変わりになる森の木の実を採ってきてくれたり、このリザードマンの村ではとても貴重な砂糖を入れた水をくれたりした。
 その水をもらった時は、久しぶりの甘味に、思わず涙を零しながら一気に飲み切ってしまったものだ。わたしの涙を見て、リウェンが大慌てでわたしをなぐさめようとしてくれたのは、今思えばいい笑い話だわ。
 わたしはリウェンのおかげで少しずつ、人間らしい感情を取り戻していった。

 主が出掛けている間に、わたしは主の寝床の藁を取り替える。そしてリウェンが持ってきてくれた新しい藁を敷き詰めた。

ありがとう、リウェン

どういたしまして

 寝床の形を綺麗に整え、リウェンを見上げる。

 リザードマンは基本的に、人間よりも遥かに背が高い。それはリザードマンの中でも小柄な部類に入るリウェンも例外ではない。
 わたしが人間の女の子としては標準的な背丈であるからかもしれないけど、リウェンはわたしより頭ひとつ半ほど大きいから、いつもわたしは彼を見上げる事になる。

 なんとなく、以前から気になっていた事をリウェンに聞いてみる事にした。リザードマンとこんな風に親しく会話する日がくるなんて、思ってもいなかった事だけれど。

リウェンはわたしを鞭でぶたないのね

鞭なんて痛いだろう? ヒトでもリザードマンでも同じだよ

でも主はぶつわ

ああ、親父はちょっとね……

 リウェンは口ごもり、そして視線を落とした。何か言い難い事でもあるのだろうか?

親父は根本的にヒトを嫌ってる。昔、親父の妻、つまり僕の母は、人間の狩人に殺されたんだ。お互い敵対し合っているんだから、こうなることは必然ではあったんだけど、でも親父はその時の事を今でも根に持っているんだ。だから親父のヒト嫌いは相当なものさ

 いけない事を聞いてしまった。わたしは言葉に詰まり、何も言えずにリウェンを見つめている。

キミというヒトの奴隷を買ったというだけでも、親父にしてみれば大変な譲歩なんだと思うよ。家の雑事をやらせる召使のような者を欲しがってたからね。それにキミを鞭でぶつのは、ある意味、復讐なのかもしれない。キミには関係のないとばっちりで、悪いとは思うけど

 確かに、腕自慢の剣士や狩人はリザードマンや魔物をこぞって倒そうとする。互いに相容れない者として。わたしだって、もし主の気分が変われば殺されるのかもしれない。

 死ねば楽になれるかも、なんて思っていた、つい先日のわたしはもういない。殺されるなんて怖い。死ぬのが怖い。
 ぶるっと身震いして、わたしは自分の両腕をさすった。その様子を見ていたリウェンはためらいがちに口を開く。

キミ。やっぱり……ヒトの世界に帰りたいかい?

え?

 突拍子もない言葉に、わたしは真顔になる。

どうしてもと言うなら、こっそり逃してあげてもいい

 リウェンの提案に、わたしは一気に彼に詰め寄った。己の欲求に忠実に、彼に向かって声を張り上げていた。

わたし、家に帰りたい! もう鞭でぶたれたくないし、こんなところにいたくない!

 感情が昂ぶり、涙があふれて零れた。

 帰りたい! もう気持ち悪い昆虫を潰すのはイヤだし、鞭でさんざん打たれるのもイヤ! 気味悪いリザードマンたちの中で暮らすのだって、イヤなんだもの!
 お母さんに会いたい。お父さんに会いたい。友達に会いたい。どうしてわたしだけがこんな目に遭わなくちゃいけないの? わたしは今すぐ、ここから出て行きたい!

 わたしはリウェンにすがりついた。リウェンだけが、今のわたしのたった一人の味方だから。リウェンだけが、わたしの願いをちゃんと聞いてくれるひとだから。

分かった。じゃあ今夜、月が東の空に傾きかけた頃、君の部屋にこっそり迎えにいくから準備しておいて。くれぐれも親父に見つからないようにね

ええ、ありがとう!

 わたしはリウェンに何度もお礼を言い、自分にあてがわれた粗末な部屋で、逃げるのに必要な最低限の荷物をまとめた。
 元々体一つだったんだもの。持っていくものなんて何もない。
 念のためにと、着替えを一着だけと、一食分のパンだけを用意して、わたしは夜になるのをじっと待ち続けた。

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