窓の外を見つめ、わたしは月が東の空に傾いたのを確認してから、更にじっとリウェンの合図を待つ。しばらくして、小さなノックが聞こえた。
恐る恐るドアを開くと、リウェンは黒いフードを持って立っていた。そのフードを、いきなりわたしの頭から被せる。
フードはリザードマンのものなのか、少しベタつきと臭いが残っていたけど、文句を言っている暇はない。朝はもうすぐそこまで来ているのだ。
窓の外を見つめ、わたしは月が東の空に傾いたのを確認してから、更にじっとリウェンの合図を待つ。しばらくして、小さなノックが聞こえた。
恐る恐るドアを開くと、リウェンは黒いフードを持って立っていた。そのフードを、いきなりわたしの頭から被せる。
フードはリザードマンのものなのか、少しベタつきと臭いが残っていたけど、文句を言っている暇はない。朝はもうすぐそこまで来ているのだ。
行くよ。それは脱がないで。暗がりに紛れるから
わたしはコクリと頷き、リウェンと一緒に主の家を逃げ出した。
足音を忍ばせ、それでも懸命に早足でリザードマンの村を抜ける。谷底から出ると森になっていて、よく見ると木に小さな傷が点々と付いていた。傷は森のずっと向こうまで続いている。
もしかしてこれ、リウェンが?
一番近いヒトの村まで、目印を付けておいた。これを辿っていけば、君は逃げられる
やっぱりリウェンが付けておいてくれた目印だったんだ。
確かにこんな森の中で一人で放り出されても、わたしの住んでいた村までどっちへ進めばいいかわからないものね。リウェンの機転に感謝だわ。
ありがとう、リウェン
わたしは目を細めて笑った。笑ったのなんて、どれだけぶりだろうか。自然と零れた笑みが、自分でも心地いいと感じていた。
でもリウェンはどうしてわたしに優しくしてくれたのかしら?
ねぇリウェン。最後に聞いていい? リウェンはどうしてわたしに優しくしてくれたの?
リウェンは爬虫類独特の目をギョロリとさせ、口をニタリと開いた。
……覚えてない、か……
意味深な言葉を呟くリウェンだけれど、わたしには意味が分からない。
覚えてない? わたしはそこから色々と連想してみるが、やっぱりリザードマンに攫われたのは、今回が初めてだわ。
うーん、そうだね……ヒトに興味があったんだ。ボクはヒトが好きだったんだ
珍しかったってこと?
そういうこと。キミみたいなヒトとちゃんと話せたのも、いい経験だったよ
わたしはコクリと頷き、リウェンと握手した。冷たい爬虫類の手だった。
ありがとう、リウェン。もう一つだけ、いいかしら?
何? もう時間はあまりないよ
わたしは僅かに高鳴る鼓動を押さえ、彼を見上げた。
わたしと一緒に来ない? 人間に友好的なあなたなら、わたしと一緒なら、平穏に暮らしていけると思うの。わたし……あなたが好きだから
リウェンは爬虫類独特の目を丸くして、小さく頭(かぶり)を振った。
ダメだよ。いくらキミが庇ってくれたとしても、僕はリザードマンだ。人間の中で平穏に暮らせるはずがない
でも……
キミの気持ちは嬉しいよ。でもお別れだ。次に会う時は、どんな形で会えるのかも分からない。敵対した剣士や狩人に追われている時かもしれないし、人間狩りをしているリザードマンの漁師の中からかもしれない
わたしの胸がきゅうっと痛くなる。わたしの浅はかさが彼を苦しめている。
僕とキミが一緒にいる事は、決していい事ではないんだ。だからここで別れるのが一番いい
……そうね。その通りだわ。ごめんなさい、リウェン
わたしはフードの前を掻き合わせ、視線を落とした。
じゃあ、わたし行くわ
リウェンが頷くのを見届けてから、わたしは森を駆け出す。けれど張り出した木の根に躓き、転んでしまった。灯りといえるものは月明かりだけなんだもの。仕方ないわ。
ゆっくり立ち上がると、膝を派手に擦り剥いていた。ふくらはぎには細い木の根が刺さっている。
痛たた……
キミ、大丈夫? ……じゃ、なさそうだね
リウェンはわたしの傍にやってきて、自分の服の裾を割いた。そしてわたしの足の細い木を抜き、丁寧に傷口に服の切れ端を巻きつけてくれる。優しく、そっと。
その時わたしの頭の中に、おぼろげな何かが思い浮かんだ。わたし、これと同じ光景を知ってるわ。
確か……えっと……わたしがもっと小さい時に……。
……リウェン
ん? 痛かったかい? でも怪我したままじゃ逃げ切れないでしょ
違うわ
幼い頃、私は森の中で小さな魔物を助けたことがあった。その魔物も足に怪我をしていて、そして村の有志が集まった魔物狩りが、すぐ側まで迫っていた。
違うかもしれないけど……わたし、小さい頃にトカゲの魔物を助けたことがあるの。もしかして……リウェンじゃない?
ヒトに興味を持つリウェンなら、きっと幼い頃だってヒトの村を見に来ていたかもしれない。そう思って、わたしは彼に問い掛けた。
彼は目を細め、細い舌をチロリと出して笑った。
やっと思い出してくれたんだね
ああ、やっぱりあなただったのね。どうして今まで忘れていたのかしら
小さい魔物を殺しちゃうのは可哀想だと思って、幼いわたしは彼を助けた。その後、魔物狩りの団体は何の成果もなく村に帰ってきたから、幼いなりに彼は逃げられたんだとホッとしたのを思い出した。
あの時助けた小さな魔物はリウェンだったんだ。わたしは奴隷として捕まって、そしてリウェンと再会し、彼に助けられた。
やっとキミに恩返しができたよ。キミが忘れているなら、それでもいいって思ってたんだけど、思い出してくれて嬉しいよ
あの時のわたしの小さな恩返しより、何十倍も助かったわ。リウェン、本当にありがとう。あなたには感謝してる。これでお別れだけど、わたし、あなたを忘れないわ
ボクもだよ
わたしはリウェンともう一度握手して、そして再び森の中へと駆け出した。東の空は明け始めていた。もう夜明けなのね。
どんなに辛い事があっても、明けない夜はない。
リウェンのように、手を差し出してくれるひとだっているかもしれない。だから挫けないで生きていく。それが、これからわたしが生きるために決意したことだった。
そしてもう一つ。
わたしはきっと、またリウェンに会える。その時、どういう状況か分からないけど、わたしはずっとリウェンの味方でいよう。リウェンだってきっとわたしを庇ってくれる。これはわたしたちが、言葉もなく約束した心の繋がりだった。