男に連れられて、

女は彼の店に入った。


かさや、

と書かれた暖簾をくぐると

ちょっと待ってな

男は先ほどの川魚をさっと水で洗ってから手際よくさばき始めた。


その間、

会話はまったくなかった。

へいおまち

出てきたのは川魚の海鮮丼であった。


中央に乗ったおろし生姜の周りを花弁のように切り身が綺麗に敷き詰められている。


女は箸を握ったまま手を付けようとしない。

どうしたい?魚は嫌いかい?

いえ、綺麗で何だか勿体無くて

んなこたあないよ。こんな稚魚はいくらでもすぐ捕まる。上等な魚は相応な大きな船の奴らが取って食う

じゃあ、稚魚とも上等ともつかない魚はどうなるんでしょうか?

そりゃ海に流れるよ。誰にも必要とされないなら静かに居心地の良い水で暮らすんじゃないか

じゃあ、海にも川にもいられない弱い魚はどうなるんでしょうか?誰にも取っても見向きもしてもらえない、帰る場所も進む場所もない魚は

女は急にワッと泣き出した。


その魚の件に、

女優のような光の当たる場所もつとまらない、

かといって女郎や夜鷹のような闇に生きる勇気や覚悟もない自分を重ねてしまったのだった。


男はそんな感情の機微をなんとなく察しつつも、

ただ狼狽しさめざめ泣く女の美しさに見惚れた。


その後、

しばらくの沈黙。


耐えかねたように男は冷め切った海鮮丼を取り上げた。


えっとそちらを向く女。


男は丼の上に荒々しく熱い煎茶をかけてこう言った。

もしその魚がこんなきたねえ所でよけりゃ一緒に泥水被って汚れてやるよ。そしたら寂しくねえだろうが

男が恥ずかしそうに俯きながら今度は美味そうに濁った茶漬けを差し出した。


立ち上る湯気の先で女は目が点になっていると

忘れてくれ。わけわかんねえこと言っちまったよな

と頭を掻いてまな板を洗い始めた。


女は首をぶんぶんと横に振ってお椀にいっぱい涙を零しながら茶漬けを掻き上げた。

美味しい。ホントに美味しい

女は鼻をすすりながらうんうん頷いた。

あんまり急くと火傷するから気を付けろよ

頷く。

こんなんでよけりゃいくらでも作るから言えよ

頷く。


それから半世紀以上もの間。


女は男の日々のやさしく、

時に厳しい問いかけに対して一番近い場所でうんうんと頷き続けた。


良い時も悪い時も首を縦に振り続けたせいで背中も腰も曲がり、

独り残された後も大好きな映画と愛しき店の切り盛りの合間に亡夫との思い出を顧みながらよく涙を零している…



それが今のばあさんの日常なのである。


続く

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