小暮忍

じゃあ、始めるか

経華は部屋の隅の方で正座をして見守り、

ばあさんはマットの上にゆっくり仰向けになった。


小暮がその右足首から回し始める。

小暮忍

痛くないかい?

いや、いい塩梅だよ。ところで先生。この前奨めてくれたコッポラの『ランブルフィッシュ』良かったよ。ミッキーロークが若い時のあの人にそっくりでね。不思議な魅力と色気があった。ただやはり最後までわからなかったのがなぜあの二匹の魚だけが鮮やかな赤と青で映されているかだね。色盲の彼にもあの魚だけは色付いて見えたのかね?

小暮忍

感覚が研ぎ澄まされ、擦切ってしまう天才的な兄の滅びの青とその天才を認めたくないが愛おしい普遍的な弟の感情の赤じゃないか

なるほど。それは美しい解釈だね。実に瑞々しい

小暮忍

あの赤と青に観客はいろんな自分の感傷を重ねる。それがあの映画の稀有な存在価値だと思うけどね

ぐるぐる回される老婆の足首のリズムに乗って、

まるで大学の映画サークルのような青臭くて深いような浅いような会話を淡々と話し続ける中年男子と老年女子。

織原経華

…おかわり

全然整体やカイロに関係ない話に付いて行けなくなったせいか、


そのたわわな胸に涎を垂らしながら経華は爆睡していた。

いい子じゃないか。一体どういう間柄だい?

小暮忍

…まあ気まぐれで餌をやった野良猫がなぜか懐いてきたというのかな

そうかいそうかい。そういや大昔、そんな女が知り合いにいたね



それはどうやら戦後日本と呼ばれる辺りの時代にいたばあさんの回顧録だった。


半世紀以上前の若かりし頃の話である。









浅草が映画の町で、

向島が撮影所だった頃、

その流れに着いて行けなかった、

ろくすっぽ端役も務まらないような三文映画女優が撮影所を抜け出してそこの橋で困り果てていた。


ここではない遠い町へ逃げるにも金がなく、

死ぬにも意気地がない。

なんとなく川下を眺めていると男前の釣り人に出会った。



それは静かな真夜中。



隅田川沿いに軒を連ねる出店屋台はすっかり閉まり、


艇に止まった小舟が小波で軋む音が聞こえるくらいに人気の無い周囲。



真っ赤な東橋の上に悩ましげな女がいた。



靴を脱ぎ、足を震わせてすすり泣いていると、


橋の袂で釣糸を垂らしている若い男が話しかけた。

そこのアンタ。そんなに思いつめた目で川を眺めないでくれないか?魚が怖がって逃げちまう

!!

女はハッと目を逸らした。



男はその白いうなじに目を奪われ、

もう一言尋ねた。

姉さん。どっかで会った事あるかい?

なお首をもたげる女に男は頭を掻いた。


しびれを切らした男は釣糸はそのままに、

藁の小筒を抱えながら橋の上の女の元に向かっていった。


そして小筒の中の生き生きと跳ねる10匹少々の川魚を見せながらこう言った。

美味そうだろ?うちはめしやなんだ。寄って来なよ。漁師たちに黙っててくれるならタダで食わしてやるよ

…はあ

男の影はあるがやさしい笑みに、

女も思わず笑みで答えた。



続く

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