第十六話 それは25年前の話(後編)

わっかんないなあ、おじさまはなんで迷ってんの?
松彦を吸血鬼にしたら、ぜーんぶ解決することじゃない

ハイネは悪い子ではない。

少しばかり、いや、かなり、
欲望に忠実なところはある。

だが、それもウソをつくことができない、純粋でまっすぐな性質ゆえなのだ。

私が甘いって?
それもまた、間違っていないだろうが。

ねえ、まさかとは思うけど、このまま見殺しになんてしないよね?
奥さんと、生まれたばっかりの子供を残して死ぬなんてかわいそうすぎるよ

それはそうなのだが、失敗したら、彼が彼で無くなってしまう……

そんなの、失敗したときに考えたらいいじゃない

ハイネの目がぎらっと光った。

僕は、おじさまに吸血鬼にしてもらうとき、これっぽっちも怖くなかったよ。

苦しくてみじめな人生を送り続けるくらいなら、
狂った屍になったって構わないと思ってた。

それがどう?僕は人間をやめてから、今、こんなに自由だ

ハイネを吸血鬼にしたのは私だ。

そのいきさつは語らないが、
彼は、深い絶望と、悲しみと、貧しさゆえに吸血鬼になることを選んだ。

だから彼は、悲しみそのものを強く強く憎んでいる。

……ああ、そうか

私は、ハイネのその言葉で、決意を固めた。

今ようやくわかった。
やっぱり、松彦を吸血鬼にするわけにはいかない

どうしてさ

ハイネ、お前には失うものが無かったんだよ。人の世に未練や執着が無かった。
むしろ捨ててしまいたいものばかりだった。そうだろう?

松彦は、逆だ。失いたくないものが多すぎる。

……

人は人のままで死んだほうがいいこともある。
それがどんなに悲しい別れであったとしても

わかんない。全然わかんない

……

吸血鬼になって、50年くらい家族と一緒に暮らして、
家族が死んだら、次の人生を考えればいいだけでしょ?
奥さんも幸せ、子供だって幸せ、本人だって幸せでしょ?
ねえ、これのどこが悪いの?

今はいい。だが、50年先、それよりずっと先……
松彦が永遠の孤独に耐えられるとは思えない。

愛する者が老いていく痛み。愛する者に残される痛み。

それは何度経験しても、想像を絶する苦痛だ。

だったら、吸血鬼だけで楽しくやればいいじゃない。
たとえば、僕とか、おじさまとか、エルンスト卿だっている

吸血鬼だけで、か

そうだよ。友達や恋人は吸血鬼だけでいい。
僕はずっとそう思ってた

ハイネの指先が、私の頬を撫でた。

ハイネは、いつも誰かの一番になりたいと思っているような子だった。

うぬぼれかもしれないが、あのころ、ハイネは私の一番になりたくて、
一人前の吸血鬼として認められたくて、いつも駄々をこねていたように思う。

……ハイネ

私は首を振り、そっとハイネの手を抑えた。

私はやはり、人間は人間の時間で生きて死ぬことが幸せだと思う。

今日話したことは、私の気の迷いだ。どうか忘れてほしい。

ハイネの表情が硬直したのが分かった。

あなたは吸血鬼のくせに吸血鬼を否定するの

そういうことじゃない

だから人間とばっかり仲良くするんだ?

ハイネ、私はそういう話をしているのではない

……あなたがやらないなら、僕がやるよ

!?

ねえ、僕にこんな話をすべきじゃなかったね?
僕だって吸血鬼だよ、僕が松彦を噛むこともできる

ハイネ

私は初めて、彼を本気で睨みつけた。

バカなことはやめなさい

もし、そのバカなことを僕がしたら?

君との縁を切る。君を傷つけることも辞さない

………

少しの間の後、くすくすと笑って、ハイネは私の前から消えた。

それから年が明けて1990年1月、松彦の病状は悪化した。

その頃にはもう、松彦が周囲に病気を隠すことは出来なくなっていた。

あれほど行動力のある夜子でさえ、松彦の余命を知った時は、ただただ、声を上げて慟哭するしかなかった。

志摩さんは2月に出産を控えていたから、
母子に差しさわりがあってはいけないと、最後まで情報を伏せられていた。

でも、頭のいい志摩さんのことだ。
状況はほとんど察していたと思う。

私はある日、松彦にも、夜子にも、宣言した。

すまない。松彦を吸血鬼にすることはできない

…………

そう言うと思ったよ

松彦は意外にも、あっさりと受け入れた。

俺みたいなカッコよくも何ともない日本人が、吸血鬼なんておかしいもんなあ

いや、そういうことではないんだが

そもそも吸血鬼になろうと思うこと自体おこがましいわよ。
あんたなんかがジルのようになれるわけがないでしょうに。

うん、頼んだ後から、しまったと思ったんだよねえ

しまった?

そう。ジルは、いつも寂しそうじゃない?
すごく楽しく話してる時でも、さよならを考えているみたいな目をしてさ。

えっ……

ああ。分るわ。
今はすごく楽しいけど、どうせこれもすぐ終わってしまう、みたいな顔をよくするわよね、あなた

……そ、そうかな

俺、ジルみたいに強くないから、そういうの耐えられそうにないもんなあ

そうね、あなたは絶対ムリね

夜子は気丈に、声ひとつ震わせずに、目を伏せた。

だから、いろいろ考えたんだけど、みんなを見送るのはつらいから、みんなに見送ってもらうラクな道を選ぶことにしたよ

……松彦……

悩ませてごめんよ、ジル

本当はたくさんの心残りや、整理のつかない思いがあるだろうに、
その時の松彦はとても晴れ晴れと笑っていた。

このまま静かに、本当に静かに、松彦は逝ってしまうのだろう思っていた、そんな夜だ。

連日雪が続いていたが、ふと止んで、大きな月が出た。

私の中にあるオドで出来た血が、言い知れぬ快楽を私の体に伝えてきた。

強烈な胸騒ぎがした。
どこかで、ハイネが歓喜している。
私のオドが、それに共鳴しているように思った。

私は松彦の病室に急いだ。


そこには、色のない松彦の身体と、今まさに血を飲み干さんとするハイネがいた。

………

ハイネ!!!

私はハイネにつかみかかり、松彦から彼を引きはがす。

なんということを……なんということを!!

それはこっちのセリフだよ、早く続けさせて

ハイネは私を突き飛ばした。

あともう少しなんだ。早くオドを注入しないと、死んじゃうじゃないか

させない

ひくひくと痙攣する松彦の身体を横目に、私は剣を抜いた。

吸血鬼にはさせない、言ったはずだ!!

どいて。このままだと死ぬ

死んでもいい、吸血鬼になるくらいならこのまま死なせたほうがいい!

私はハイネに切っ先を向けた。

正気? おじさま、彼を殺す気?

お前こそ正気になれハイネ、松彦は吸血鬼になることを望んでいない

彼は、ね

私たちは戦った。

私はレイピアで、ハイネはナイフで。

そのうち、武器を捨て、気功と黒魔術で殴り合いをしていたように思う。

ハイネは若いが、吸血鬼として、私のほうが一日の長がある。

やがて私はハイネの動きを封じ、彼の首筋に噛みついた。

吸血鬼が吸血鬼と戦う時、
強者が相手の首筋に噛みついてオドを吸う。
そうして弱らせて、服従させるのだ。

ハイネは私の腕の中で、どこか観念したように微笑んでいた。

あなたに、こんなことされる日が来るなんてね

きみを巻き込むべきではなかった。すまない

なんで勝ったのに謝ってるの

しばらく眠っていてくれ、ハイネ。すべてが終わるまで

私はハイネのオドを吸い、彼を横たえた。

立ち上がって見渡すと、床にはハイネが、ベッドには松彦が、横たわっていた。

松彦はもう、痙攣をしていなかった。

その身体はロウのように白く、腕も足も微動だにせず、
息さえ、していないようだった。

もっと安らかに逝かせてあげたかった……

彼の様子を確かめようと、私はベッドを覗き込んだ。

情けないことに、私はあられもなく泣いていたので、気配に気づくことができなかったのだろう。

感じたこともないような鋭い痛みが、私の背中を貫いた。

驚いて振り向くと、そこには志摩さんがいた。

!?

ッ!!

一本目の杭を私に深々と突き立てた志摩さんは、さらにもう一本の杭を振りかざしていた。

やめなさい、志摩さん

吸血鬼の心臓は右側だから、志摩さんの一撃目の狙いは間違っていた。
気功の一発、剣の一撃くらい、しぼりだせるチカラはまだ残っていたと思う。

だが、私は何もできなかった。
志摩さんの無表情に近い顔と、大きなお腹。私に何ができるというだろう。

やめ………

!!

志摩さんがもう一本の杭を私の胸に突き立て、私はそれきり、意識を手放した。

その後のことは、推察でしかないが。
致命傷に近い傷を負った私を、夜子が月光館に運び込んだのだろう。

おそらく、私の仲間の一人が復活のための適切な処置をしてくれたのだと思う。

そのおかげで私は滅びることはなかったが、
傷が癒えて目覚めるまでには実に25年かかったというわけだ。

だから松彦がどうなったのか、ハイネがどうなったのか、はっきりしたことは分らない。

私は、ハイネを倒し、松彦が亡くなったと確信していたのだが、どうやらそうではないようだ。

…………

…………

…………

…………

これが私の話せるすべてだ、アマネ。

君の家族をばらばらにしたのは、
この私であり、吸血鬼という存在だ。

第十六話 それは25年前の話(後編)

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