優華

おとうさま…

それは、遠いとおい記憶。
 

母が死んだその日。
父は母の死に顔を見にこようともしなかった。
 
次の日。泣きわめくあたしを侍女が必死になだめている間、父は一度もあたしのもとを訪れなかった。
 
葬儀の日。父は正室であった母の葬儀を開こうともしてくれず、母の故郷の親族が開いてくれた。
 
次の日。後処理に急き立てられながら、父の訪れを待った。
 
その次の日。あたしは訪れてくれない父にあて、自ら手紙を送った。
 
また次の日。父からの返事はなかった。

 
次も、次の日も。
そのまた次の日も父からの便りはなく、痺れを切らしたあたしは、自ら父のもとを訪れた。
 

あたしを止めようとする侍女を振り切って部屋に入ったあたしは、自らの父の情事を見てしまった。
 

母が死んで間もないのに、他の女と…。
呆然とするあたしを見て、父は侍女に言った。

蓮見慶一

なにをしておる、邪魔だ、連れて行け。

そう言われ、今まで頭を下げていた侍女が動く。
腕を取られ、あたしは慌てた。


まだ、ここに来た本当の目的を果たせていない。

優華

お、おとうさま…ッ

うっとおしそうな目を向けられ、一瞬だけひるんだ。
 
だが、今はそんな場合ではない。

優華

なにゆえ、…なにゆえ、かあさまのそうぎにこられなかったのですかッ?

女の顔に手を当て、父はこちらを見ようともしない。

女の体に唇を這わせながら、父は何事でもないかのように言い放った。

蓮見慶一

何故、わしが行かねばならぬのだ。

その言葉は、どんないいわけよりも胸に刺さった。


嘘でもいい。なにか母の死を悼む言葉が欲しかった。
父もあたしと同じように母を愛していたのだと思いたかった。


父の言葉からは、父が母のことをなんとも思っていなかったことがうかがえた。
 
あたしはもうそれ以上なにも言えず、侍女にひきずられるまま部屋から出て行った。

 
父は、それ以来あたしに会おうともしなかった。
 
あたしは悲しかった。
捨てられたのだと思った。

父はあたしのことなど愛していなかった。
母のことなど愛してなかった。


あの人の目に映るのは、この国のことだけ。
父は力を手に入れるために母を利用しただけなのだ。


それを知ったのは、母の死から数か月たった日のことだった。


その日、あたしはすべてをあきらめた。


いい子にしていたら、いつか父はあたしのことを見てくれるかもしれない。
愛してくれるかもしれない。


そんな希望を捨てた。
あたしはすべてをあきらめ、屋敷の片隅でひっそりと生きてきた。
 
それでも弱いあたしには、父を憎むことさえできなかった。

そんな父に呼び出された時は、喜びなど生まれなかった。
ただ不安で胸がいっぱいになった。
父はあたしを疎んでいた。

“外の国の血を引く忌児よ”と、何度も罵られた。

あたしがほかの兄姉妹弟にいじめられているのを見かけても、父は彼らを咎めようとはしなかった。

あたしの泣き顔を見ると、父は露骨に嫌そうな顔をし、“うるさい”と何度も叫ばれた。

その声がまた怖くて、あたしが泣き出して堂々巡り。
 
あたしは、父が嫌いで、父もきっと、あたしを嫌っていた。
 

そんな父からこの縁談と、とある計画を持ち出された。
 

母もなく、頼れる親族もない。
まして心から愛し、愛され、あたしをあの暗い屋敷から盗み出してくれる殿方などいるはずもなかった。
 

あたしには、父の命令を断る力なんてなかったのだ。
あたしは、父におとなしく従うしかなかった。


 
たとえ、あの方を裏切っていたとしても――

次の日は、比較的体調が良かった。
この分だともう動いても大丈夫かもしれない。

ぜんぶ、優華のおかげだよ

僕はそう言って、桶の上で布を絞る優華に微笑みかけた。
 

この4日間、優華は本当によくしてくれた。
僕の手助けをしたいと言ってくれた。

常に僕のそばにいて、熱を冷ますための布を毎回変えてくれた。
彼女には感謝してもしきれない。


とはいえ、体をふく作業でさえ自分がすると言い張る彼女を説得するのは大変だった。

結局僕の肌を見た彼女は――おそらく初めての経験だったのだろう――慌てて眼をそらし動かなくなったので、僕はそこでやっと彼女の説得に成功したのだった。

戴輝

ありがとう

すると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。

優華

…あたしは、なにもできていません。

そんな風に謙遜する必要はない。
そう言うのに、彼女はそれを謙遜だと認めない。

優華

あたしがこんな風にするのは、なにも戴輝さまのためではないのですよ。

絞った布を、僕の頬にあて、そっと拭う。
濡れた布の感触に、さわやかな気持ちになる。

優華は丁寧に僕の顔、続いて首へと布を滑らせながら、言葉を続けた。

優華

あたしが、こうしていたいのです。

そう言って作業に集中しようとする優華を見ていると、なんだか胸が締め付けられ、心地よい痛みを感じる。
 


…僕も、ずっとこうしていたい。
優華と一緒に、いつまでもいたい。
 


僕は、それが叶わないことを知っていながらも、それでも願うことをやめられなかった。

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