夕顔の女の素性がはっきりとは確かめられない状況だったので、源氏の君は御自身の素性を明かそうとはいたしませんでした。


身なりもわざと粗末なものになさって、いつもは牛車に乗られるのに車から素性がわかってはいけないと歩いて向かわれます。

その御姿からはこの女との恋が遊びではないことが窺われます。

惟光はその御姿を健気に思い、自分の車を差し上げ熱心に手伝いをするのでした。
 

真面目な人でも恋愛の道においては乱れることがあるとは言いますが、源氏の君も例外ではなかったようです。


昼間逢わないうちも何度となく夕顔の女のことが思い出され、逢いたくて仕方がなくなるほどでした。

私が心を乱すような女ではないと何度も御自身に言い聞かせなんとか心を落ち着かせようとされますが、思うようにならないのが恋というものなのでございます。
 

慎み深い女でも、思慮深い女でもありません。

しかし歳に似合わず幼く無邪気な姿に、これまで逢ったどの女とも違う魅力を感じ、源氏の君はその御心の空虚を埋めるようにこの女に溺れていったのでした。
 

素性もはっきりとはわからない。

中将の君の申していた昔話のようにこの女が突然姿をくらましてしまったなら、今の私には追う術もないのだ。
そう不安に思われるほどでした。
 

もう遊びの恋では済まないまでになっていたのです。
 

これほどまでに素直に誰かを愛するなんて、初めてのことだったのでしょう。
 

源氏の君はそしてこの女を二条の御邸に迎え入れたいとお思いになりました。

世間がどんな噂をしてもかまわない。
この女を妻にしたいと思われたのでした。
 

それは満月の美しい晩のことでした。

源氏の君

どこか静かな所で、貴女とふたり話がしたい。

と源氏の君がお誘いになると、女は

夕顔

慣れないことなのでなんだか恐ろしい。

と幼い人のように言います。

その様子がなんだか愛らしくて、源氏の君は優しく微笑まれるのです。

源氏の君

なるほど。では、貴女は黙って騙されていればよろしいのです。

するとすっかり女もその気になって、この方にならば騙されてもいいと思うのでした。


夕顔の女の素直で従順なところを見て源氏の君はなんと愛らしい人だとお思いになるとともに、やはりこの女が中将の申していた常夏(とこなつ)の女なのではないかと思われるのでした。

それを確かめたいというお気持ちはもちろんお持ちだったようですが、この女が自分から話すのを待とうとも思われたのです。
 

月の下で見る女は絶世の美女と言うほどではありませんが、細く小さな体は頼りなく、守ってやりたいと思うような女でした。

おっとりとした振る舞いも女らしくて可愛げがあります。
 

まだ少し躊躇っている様子の女を半ば強引に車に乗せ、源氏の君はある邸に向かいました。


邸を管理している者を呼び出させている間あたりを見回すと、荒れた門には草が酷く生い茂っています。

もうすっかり日も明けかけていて、今朝は霧も深く湿った空気があたりを包んでおりました。

そんな日なのに車の御簾を上げたままでいらしたので、源氏の君の袖まですっかり濡れてしまわれました。
 

そのような御経験は初めてでしたので源氏の君はなんだか可笑しくなっておっしゃいました。

源氏の君

このようなことは初めてです。

“いにしへも かくやは人の 惑ひけむ
 我がまだ知らぬ しののめの道”

…昔の人もこのようにして恋の道に迷ったのでしょうか。
私はまだ知らない明け方の道です。貴女は、私とは違い御経験があるのですか。

すると女は恥ずかしそうに答えます。

夕顔

“山の端の 心も知らで 行く月は 
 うはの空にて 影や絶えなむ”

…山の端をどこと知らないで付き従っていく月は、うわの空の気持ちなので光が途絶えてしまうのではないでしょうか。
なんだか心細くて。

そう言う様も非常に愛らしく、きっとあのように小さな家がたくさん集まっているところに住んでいるからそう思うのだろうと源氏の君は可笑しく思われます。
 

しばらくして邸の中に入られた源氏の君は、自ら部屋の格子をお上げになって外の景色を眺められます。

なんだかひどく荒れていて、木立の生い茂る様は不気味でもありました。

鬼が出てもおかしくなさそうな様子でした。
 

その時まで源氏の君は顔を布で隠していらっしゃったのですが、夕顔の女はそれを面白くないと思っているようでした。

確かにここまで深い仲になってしまったのだから、今更隠すものでもないとお思いになって、布を取ってしまわれました。


朝日に照らされたその御姿は、眩しく光り輝いておられました。

こんなに美しい方がこの世にいらっしゃったのかと、女は見つめます。

源氏の君

“夕露に 紐とく花は 玉鉾の 
 たよりに見えし 縁にこそありけれ”

…夕べの露を待つように花開いて、この姿をお見せするのは、道であった縁の為なのですよ。
露の光は如何ですか。

そう源氏の君がおっしゃると女は流し目でその御姿を見てこう言いました。

夕顔

“光ありと 見し夕顔の うは露は 
 たそかれ時の そら目なりけり”

…光り輝いて見えた夕顔の上の露は、黄昏時の見間違いでした。
たいしたことありませんわね。

と女はどこか楽しんでいるようでした。
源氏の君はやはり面白い女だとお思いです。

源氏の君

いつまでも素性を明かしてくれないので私もずっと隠してきたのですよ。
ですがもう負けました。
貴女に心底惚れてしまった私の負けです。
どうか名前を教えてはいただけませんか。

源氏の君はそう訴えますが、女は

夕顔

家も名前もない女ですから。

とはぐらかしてしまいます。

つれない女だと思われながらも、愛おしさゆえに強くお訊きになることが出来ないのでした。


それでもいい、これからゆっくり知っていけばいいことなのだと、その時源氏の君は確かにそう考えられておられました。

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