その夜のことでございます。
あの花のことを思い出された源氏の君が花と扇をご覧になると、扇になにやら書かれているようです。
それは一首の歌でした。
その夜のことでございます。
あの花のことを思い出された源氏の君が花と扇をご覧になると、扇になにやら書かれているようです。
それは一首の歌でした。
“心あてに それかとぞ見る 白露の
光そへたる 夕顔の花”
…当て推量に貴方が来たのかと思いました。
露の光を添えた夕顔の花も一層美しく見えます。
…光。
それはまるで
もしや貴方は光る君ではございませんか。
と訊いているようにも思えました。
女が自ら歌を詠んで寄こすとはなんてはしたない女だろうかと思われましたが、思ったより美しい字で書かれてあったので興味をお持ちになるのでした。
それに、名指しで歌を詠んでくるなど、面白い女ではありませんか。
惟光。隣の家に誰が住んでいるか知らないか。
とお尋ねになりますが、肝心の惟光はあまりいい顔をいたしません。
またいつもの御戯れかと溜め息を吐きます。
さあ。こちらへ下がらせていただいてからは、母の看病ばかりしておりましたから。
惟光が不愛想にそう申し上げると、源氏の君は惟光の気持ちを見透かして
おまえは不快に思っているのかもしれないが、どうしても知らねばならぬのです。
とおっしゃいます。
すると惟光も御言葉に従って、下人に話を聞きに行きます。
するとどうやら地方に出ている役人の家だと言うのです。
男は家におらず、妻とその姉妹が住んでいるそうなのです。
それではこの手紙の女はその姉妹のひとりなのだろうと源氏の君はお思いになります。
きっと興醒めするような低い身分の女に違いありません。
それでも…なぜか心動かされてしまうのです。
源氏の君は筆を執ると、紙にすっかり別人のような字で歌をお詠みになりました。
“寄りてこそ それかとも見め たそかれに
ほのぼの見つる 花の夕顔”
…それでは、もっと近くに来てご覧になっては如何でしょう。
その黄昏にぼんやりと見た夕顔の花を。
それから源氏の君は惟光にその家のことを調べるよう言いつけられました。
惟光はあの家に住む女のひとりの元へ通うようになりました。
それからかなり長い時間が経ちましたが、まだ女の素性ははっきりとはわかっていませんでした。
しかしある日のことです。
五条の家の前を先払いをして通る牛車があった日のことでした。
右近さん、早く早く
と覗き見をしていたのであろう小さな女の子が建物の方へ向かって呼びかけました。
早く御覧になってください、中将殿が通り過ぎてしまわれます。
すると奥から上品そうな女房が出てきて
お静かに
と申すのです。
中将殿とはもしやと思い惟光が注意深く話を聞いておりますと、女があれは誰、これは誰と随身を数えておりましたが、その名前はどれもすべて中将の君の随身の名前でした。
これはもしやと思い惟光は源氏の君の元へ参上し、その話を申し上げます。
あのように賤しい通りになぜあの歌を詠めるような教養のある女がいるのだろうかと不思議にお思いになっていた源氏の君は、もしやと思われました。
もしやあの女は、中将の申していた忘れられない女なのではないかと。
だとすれば、教養のあるような手蹟の女が自分から歌を詠んできたのもわかります。
もしかしたらあれは、はしたなく男を誘った歌ではなく、昔の夫が自分を探しに来てくれたのではないかと思い、夫にだけわかるように詠んだ歌なのかもしれません。
あの歌がどちらの歌であったのかは、実際に女に逢えばわかることです。
惟光、女の元へ向かいますよ
そうして源氏の君は、この女の元へ通うことをお決めになったのです。
これからはこの女を、あの白い可憐な花になぞらえて夕顔、と呼ぶことにいたしましょう。