これは、源氏の君が六条の方へこっそりお通いになっていた頃のお話です。


源氏の君の乳母をしておられた大弐の乳母と呼ばれる方がいらっしゃいました。

この方は重い病を患われ、それを機に出家なさり、五条で尼として静かにお暮らしになられていたのでした。
 

内裏から退出なさる際、源氏の君は休息所としてこの大弐の乳母の家へお立ち寄りになりました。

すると門が閉まっていたので、従者に中にいるはずの惟光(これみつ)を呼びに行かせることになりました。


惟光はこの大弐の乳母の息子にあたる男で、源氏の君にとっては乳兄弟、同時に信頼する部下でございました。

それをお待ちになっている間、周りの家々を見ていると、どこからか視線を感じます。

それは乳母の家の隣にある家からでした。
掛けてある簾の陰から、数人の女がこちらを覗いているようです。


忍びのお越しでしたから、御車も地味にされていたので、私が誰かなどわからないだろうと源氏の君はお思いになって、少し大胆に向こうの様子を窺い返します。
 

と、塀に蔦などが絡まっている中、白く可憐な花が一輪咲いているのを見つけられました。

源氏の君は初めて御覧になる花だったのであれは何かと従者にお聞きになります。

従者

あれは夕顔と言う花でございます。このような賤しい垣根にも綺麗な花を咲かせるのです。

と従者は跪いて申し上げます。

一輪だけひっそりと咲く様が寂しそうに見えてきて、源氏の君は従者にあの花を手折って持ってくるようお命じになりました。

すると、従者が花を手折っているところに、例の家から女の子が現れて香を焚き染めた白い扇を従者に与えました。

女童

枝もなにもない花ですから、これに載せるといいでしょう。

と申すので、受け取って花を載せて戻ります。

ちょうど惟光が現れたところで、

惟光

このような界隈に長くお待たせして申し訳ありません。

とお詫び申し上げていました。
 

大弐の乳母はまさか源氏の君がお尋ねになるとは思いませんで、感激して涙まで流しておられます。

大弐の乳母

貴方の御姿をこの目で見ることが出来ました。もう思い残すことなどございません。

とまでおっしゃるので、源氏の君はこの方を不憫にお思いになりました。

源氏の君

そのような哀しいことを仰らないで下さい。これからも長生きしていただかないと私が困ります。
幼い頃亡くなった母の代わりに私を可愛がって下さったのが貴女でした。
気を許せない者達に囲まれて育った私にとって、貴女だけが唯一心を許して甘えることが出来る母なのですよ。

と言うと、またお泣きになってしまわれたのでした。

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