女はあの歌のやり取り以来源氏の君からの御手紙が途絶えてしまったことを嬉しいと思うように努めていました。

あのまま忘れられるのも哀しいが、あのように強引な誘いがずっと続くのも困りものだと思っていたのです。


ですが、それと共に自分のような中流の人妻が高貴な御方に思いを寄せられるという夢のような出来事を、忘れることのできない自分がいたのでした。
 

そんなこともあり、その頃女はいつも物思いにふけっていて、夜もあまり寝付くことが出来ずにいました。

その晩、皆が寝静まった後になって、源氏の君が忍んで来られたことにも、この女はいち早く気づくことが出来ました。


その歩き方から男であることはわかります。
それに加えて高貴な薫物の香りが夜風に乗ってやってきました。


こんな女のもとへ忍んで来られるような、物好きな高貴な方はあの方くらいしかいらっしゃいません。
 

女は隣で眠る義理の娘を残し、静かにそっと部屋を出たのです。


そうとは知らず源氏の君は女の寝室へお入りになりました。


源氏の君は寝所に女一人しかいないのをご覧になり安心なさいます。


そっとそばにより声を掛けますが、あの冷たい女にしては大柄なような気がします。

それに全く目覚める気配のない鈍感な様子……源氏の君はやられた、と悔しい思いをなさいます。


あの冷たい女は自分の身代わりを残して消えたのです。
きっと近くで息をひそめ、こちらの様子を窺っているのに違いありません。


世間体ばかりを気にして源氏の君の御誘いを断るような女です、そもそもそう簡単にあの女を捕まえることが出来るはずもなかったのです。
 

しかし、ここで引き下がるわけにもいきません。
間違って他の女のもとへ忍んだなど、とんだ恥です。


ここは自分の素性がばれないようにやりすごそうと、起きた身代わりの女と契ってしまわれました。

源氏の君

人に私達の関係が知られては困りますので、何でもないふりをして過ごされるのですよ。

と念を押してから、源氏の君はあの女が置いていったのであろう着物を一枚手に取ると部屋を出ていかれました。


まんまと騙され身代わりの女を手に入れた私をあの女はきっと嘲っているのに違いない、と源氏の君はお思いになるのでした。
 

源氏の君

“空蝉の 身をかへてける 木のもとに
 なほ人がらの なつかしきかな”

…まるで蝉の抜け殻のように、衣一枚を残して逃げたつれない貴女ですが、やはり貴女のことが忘れられないのです。

次の日の朝、源氏の君はつれない空蝉の女に向けてその歌を詠み、小君に持たせました。

女は昨夜の出来事に腹を立てていました。
なんと勝手なことをしてくれたことかと小君を責めます。


まさか衣を取られるとは思いませんでした。
暑い日が続いていたし、汗臭くなどはなかっただろうかと心配します。

しかし本当は、そのようなことが気にかかっていたわけではありません。
 

なんの躊躇いもなくあの方を受け入れた義理の娘を見ながら、自分がもし人の妻でなかったならと、あるはすもないもしもの話を考えずにはいられないのでした。


どうしても気持ちが抑えられずに、女は源氏の君に頂いた御手紙のの隅に小さく歌を詠みました。


誰にも見つかることのないよう、ひっそりと。

“空蝉の 羽に置く 露の木隠れて 
 忍び忍びに 濡るる袖かな”

…貴方様は御存じでないのかもしれませんが、空蝉の羽につく露が木に隠れて見えないように、私も密かに貴方を思い涙に袖を濡らしているのですよ。

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