女院

そんな…、嘘よ!

耳に届く女の悲痛な声に、僕は起き上がった。
夜の部屋は暗く、僕はまず状況を知ろうとあたりを見渡した。

襖の向こうが明るい。
声はそこからしていた。

女院

嘘だって言ってちょうだい…

父帝

春日(はるひ)…

それは紛れもない、父の声だった。
そこから、あの叫び声は母のものだとわかった。
 
僕は驚いた。
母のあのような声ははじめて聞いた。

いつも穏やかに微笑んでいるような人だったから、このように感情をあらわにすることなんて今までなかった。

侍医

申し訳ございません、中宮さま。…しかし、本当のことなのです

それは侍医の声だった。

いったいなんの話をしているのだろうかと気になった僕は、そっと立ち上がった。

一歩足を踏み出して、自分の隣に誰かが横になっていることに気がついた。
姉の春乃だ。

そういえば、今日は姉と遊んでいたはずだ。
久しぶりに一緒に遊べてうれしかった。
僕達ははしゃぎすぎて、雨が降ってもしばらく外で遊んでいた。

それがいけなかったのだ。
病み上がりの僕は、おそらくあのあと――

僕は姉を起こさないようにそっと入っていた布団から抜け出して、襖に近寄った。

そっと向こう側の様子をうかがう。
母は、泣き崩れていて、それを父が支えていた。
父に背中をさすってもらっていても、母は泣きやまない。

…いったい、なにがあったというのだろう?


僕は、次の言葉を待った。

侍医

…皇子の病は、今の医学で治せるようなやわなものではございません。

…僕?
予想もしていなかった言葉に、僕は息を呑む。侍医は続けた。

侍医

五臓六腑を蝕まれ、やがて死に至る病気です。未だその原因は解明されておらず、明確な治療法もありません。

女院

そんな…

母の悲痛な声。

…僕は、侍医の言葉の意味が分からず、ただただ茫然としたまま3人の大人を隙間から見ていた。
 
やがて、父が口を開く。

父帝

――して、あれはあといくらもつ

僕の命は、いくらもつのか。そういうことだ。

侍医は一瞬ためらった後、こう言った。

侍医

…成人するまで、お体がもつかどうか。

成人。
蓮での成人の儀式が行われるのは、女なら14前後、男であれば17前後だ。
 
大きくなる母の泣き声。

僕は見てはいけないものを見てしまったような気分になり、静かに布団に戻った。
 

そっと、目を閉じる。
母の泣き声はやまない。
 
まだ幼かった僕は、10年後の未来なんて思い浮かべることさえできなくて――、死ぬことを恐ろしいと思うよりも、母を泣かせてしまったことの方が悲しかった。
 

あの日、僕は決めたのだ。

もう、誰も泣かせない。
これ以上、誰も悲しませたくない。
 
だから、今まで必要以上に人とかかわらず、友人をつくらず、女を愛そうとしなかった。
 

それは12年前、こんなふうな春の日のこと――

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