8月も10日を過ぎたある午後であった。

 甲信越地方の奥深く、研究施設に向かう車のなかに女はいた。

あの小高い丘の向こうが施設ですよ

 陸軍の運転手が言った。

陸軍の細菌戦研究機関だと聞いています

 女は凛として応えた。

 運転手は親しみをこめて言った。

様々なウィルスを扱ってます。くぼ地をコンクリートでおおうようにして作られた地下施設です

空襲にも耐えられそうですね

もちろん、どんな攻撃にも耐えられます。最下層には、教皇陛下がお隠れになるシェルターがあるくらいですよ

そうなんですか?

ははは、秘密なんですがね。といっても、あなたは総理大臣直属の『お庭番(スパイ)』。こんなことは、すでにご存知なんでしょう?

お庭番だなんて、旧体制時代の呼びかたは止めてください。今は、『公安警察』と言うんです

こりゃ、失礼しました。で、そのコーアンの御方が、研究施設にどのような御用でいらしたのですか?

……。何も知らされてないんですか?

ええ。ただ、海の向こうに何があるか、あなたがどこから帰国したのか――それくらいは分かりますがね

だったら言えません

ははは、これは手厳しい。っと、到着しましたよ

ありがとうございます

 女は車を降りると、ぺこりと頭を下げた。

 運転手は頭を下げると、

あのっ、コーアンさん

 と言って、それからつけ加えた。

敵国は強いでありますか?

………………

 女は答えなかった。

 ぎゅっと、ただ『痴女』の腕を抱いただけだった。――

 地下施設は、真っ白な壁でできていた。

 すべてが清潔で、乾燥していて、そして人工の光で照らされていた。

 女は地下3階にある研究室で、老人に会った。

はじめまして。当施設の責任者をしているイシイです

警察庁公安課所属の監察官、ヤマイダレです

ヤマイダレ……珍しい名前ですな

ええ

偽名ですかな?

はい。監察官(スパイ)ですので

 女監察官は、屈託のない笑みでそう言った。

 老人は、孫でも見るような、そんな瞳で微笑みをかえした。

お預かりした『腕』は、すでに調査を始めています。ヤマイダレ監察官におかれましては、船上での出来事をもっとくわしく訊きたいですし、それにお疲れでしょうから、当施設で何日かゆっくりされるとよいでしょう

はい。そういう指示を受けております

当施設の査察も兼ねておいでかな?

いえ。たぶん私を勾留(こうりゅう)するためだと思います。『腕』のことを知っていますので

ほうほうほう。さすがに中央のエリートさんは賢いの

 老人は、心から喜んでそう言った。

 いつの間にか、くだけた口調になっている。

 女監察官を気に入ったようだった。

さて、監察官。もしご希望ならこれから施設を案内するが?

ぜひ、お願いします

最下層のウワサは聞いておるかの?

えっ、あっ、はい。シェルターですよね?

ほうほうほう。あんた、今一瞬、誰かをかばおうとしましたな

はあ

ああ、心配せんでもええ。口の軽いのはどこにでもおるからの。それに、たとえ秘密を知ったとしても、どうにも手出しはできますまい

ん?

さて、さっそく見にいきますかの。その『お召し寝台』を

 老人は、穏やかな笑みでそう言った。

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