いずれの御代のことだったでしょうか。
その帝の後宮には、数多の女性達が暮らしておられました。
その中にたいして位は高くないのですが、一際御寵愛を受ける方がいらっしゃいました。
その位の低さから帝のおわす清涼殿(せいりょうでん)から遠く離れた淑景舎(しげいしゃ)に住まうその方を、これからは淑景舎の別称をとり桐壷更衣(きりつぼのこうい)と呼ぶことにいたしましょう。
いずれの御代のことだったでしょうか。
その帝の後宮には、数多の女性達が暮らしておられました。
その中にたいして位は高くないのですが、一際御寵愛を受ける方がいらっしゃいました。
その位の低さから帝のおわす清涼殿(せいりょうでん)から遠く離れた淑景舎(しげいしゃ)に住まうその方を、これからは淑景舎の別称をとり桐壷更衣(きりつぼのこうい)と呼ぶことにいたしましょう。
更衣とは帝の妃のうち位の低いものを指す言葉です。
父君の位により左右されるのですが、父君が大臣以上の女性になると同じ妃でも女御(にょうご)と呼ばれ、帝の正妃である中宮(ちゅうぐう)は女御の中から選ばれたのです。
この帝にはまだ中宮がおりませんでしたが、事実上の中宮はいらっしゃいました。
清涼殿に近い弘徽殿(こきでん)に住まわれる女御です。
これからはこの御方を弘徽殿女御とお呼びいたしましょう。
今上帝は幼くして即位された方でした。
そんな今上帝に代わり政を行っていらっしゃったのが当代の右大臣左大臣です。
その頃陛下は二十歳に満たない歳。
陛下に実権はなく、政も人事も臣下と、右大臣の姫君である弘徽殿女御の御心のままでした。
そんな中、帝はその御心の空虚を埋めるように桐壷更衣を御寵愛なさるようになりました。
他の妃の方々は気が気ではありません。
そうして他の方々の妬み嫉みを一身にお受けになったせいでしょうか。
だんだん御病気がちになり、里下がりを申し出なさるようになっていきました。
するとますます帝はこの御方を愛おしい、そばに置きたいと思われるようになり、その御寵愛ぶりは人の噂になるほどでした。
その状況を面白くないとお思いになるのは、他の妃方だけではございません。
自分の娘こそはと思い娘を入内させた方々も面白くありません。
中には
大陸でもこのようなことがあり、世の乱れることがあったとか
と嫌な噂を流す方もいらっしゃいました。
そうして楊貴妃の例まで持ち出され、桐壷更衣はますます肩身の狭い思いをなさるようになっていったのでした。
それでも、帝の御寵愛だけを頼りにお仕えなさったのです。
この桐壷更衣と帝とは、前世からの余程のご縁でもあったのでしょうか。
世にまたとない玉のような皇子までお生まれになりました。
そのことを聞いて帝が急ぎ宮中に戻りその御顔をご覧になると、なんと美しい御子さまであったことでしょう。
帝は先にお生まれになった弘徽殿女御の第一皇子よりも、この弟宮を御寵愛なさるようになりました。
もともとこの桐壷更衣は、他の方々からこのように酷い扱いを受けるような軽い身分の御方ではございませんでした。
すべては父君である大納言様が早くに亡くなり、後ろ盾がなくなったことが原因だったのです。
この玉のような皇子がお生まれになってから、帝は猶更桐壷更衣を格別にお扱いになるようになりました。
我が第一皇子こそが東宮(とうぐう)となり、次期帝になること間違いなしとお思いになっていた弘徽殿女御などは気が気ではありません。
もしかしたらこの弟宮の方が東宮に選ばれてしまうのではないかと思うほど、桐壷更衣への嫉妬は強くなっていったのでした。
先ほども申し上げました通り、桐壷更衣の住まわれる淑景舎は清涼殿から遠く離れたところにございます。
帝のもとへ向かわれる時は、当然他の妃の方々の部屋の前を通らねばなりません。
帝がお越しになる場合も然りです。
ひっきりないお越しに、他の方々の嫉妬が膨らんでいかれるのも仕方のないことだったでしょう。
そしてその嫉妬は、やがて行動へと変わっていったのです。
桐壷更衣が帝のもとへ参上すると聞きつけては、廊(わたどの)のすみずみに仕掛けをしてお付きの女房の着物をぼろぼろにしたり、戸を閉めて閉じ込めたりなどと嫌がらせが始まりました。
その様子を見て不憫に思われた帝は、清涼殿に元から住んでおられた別の更衣の御部屋をよそにお移しになり、代わりに桐壷更衣にお与えになりました。
そのことがますます他の方々の嫉妬を買ったことは言うまでもございません。
帝がその愛おしさゆえに桐壷更衣を格別に扱うほど、更衣はつらく思うのでした。