中宮彰子

では、貴女が新しい物語を書くのは如何

 女は経典を読むのでさえ厭われた時代。漢文を読みこなす女などさぞ珍しかったことでしょう。幼い頃父は年の近い兄と私を比べ

おまえが男子(おのこ)であったなら

と何度申していたことでしょうか。


しかしそう嘆きながらも、私が望むように教育を施してくださった父には感謝しかありません。


お蔭で夫亡き後も、私はこうして生活することが出来ているのですから。
 


若い頃は女房という仕事を卑しいものだと思っておりました。


表向きは高貴な御方にお仕えする使用人、裏では寝所で主や客人の相手をすることも厭わない売春婦。


婚期を逃し、このまま一生独り身かもしれないと思った時でさえ、それでも女房として外で働くことだけは選べませんでした。


夫の死後、宮仕えのお話を聞いた時も正直躊躇いがありました。


宮仕えとは言っても、お仕えする所が変わるだけで、結局は女房という仕事に変わりはないと思っていたからです。


しかし断れるはずもございません。
時の関白殿下の御命令でしたし、私が宮仕えに出れば父や兄の処遇も変わるかもしれないと思ったからです。


仕方なく始めた宮仕えでしたが、今では楽しいとも思えるようになっていました。


それもすべて目の前のこの御方のおかげです。
 


美しいこの御方は中宮彰子(しょうし)様。
今上帝の後宮の中一番に輝く御方です。



女が漢文などと言われ続けた私にとって、私の能力を初めて認めて下さった御方でした。


宮様は私の知識を他の者にはない武器だと仰って下さいました。



本来であれば言葉を交わすことはおろか、拝顔することさえかなわない御方にそのあたたかい言葉をいただいた時から、私は生涯この御方にお仕えしようと決めたのでした。
 


ですが…この御方は私が思っていた以上の御方でいらっしゃったようです。

それはいつもの日のことでした。


選子(せんし)内親王から何か面白い物語はないかと尋ねられたそうなのです。そして

中宮彰子

貴女何か面白い物語知らない?

と彰子様は私にお尋ねになられたのです。
なんとも難しい御質問です。

選子内親王様といえば当代随一の文化人。
そんな御方に物語をお薦めするなど恐れ多くてできるはずがございません。


私は正直にお薦めできる物などないと答えました。
するとあろうことか宮様は先程の言葉を口になさったのです。
 


断ることなどできるはずがございません。
私は自作の物語を作ることになりました。


まわりの女房達からは名誉なことだと羨ましがられましたが、私は喜ぶことなどできませんでした。


物語を読むのも、空想の話を考えるのも好きでしたが、それはあくまで個人的なものです。


当代一の文化人と誉れ高き選子様にお薦めできるほどのものが書けるかどうか…。


そもそも、私の書く物語は他の方々に読んでいただくほどのものなのかどうか…。
 



もしつまらないものでも献上すれば、彰子様の恥になる。
 


私には今ある物語を超えるものを書く自信もなく、かといって書く以外にこの状況を打破できるものはありません。


時間が経てば経つほど周りの期待も大きくなっていきます。



困り果てた私は物語を書くという名目で寺に籠ることにしたのです。


琵琶湖からほど近い山の上に建つその寺で私はずっと考え続けました。



こうして自分を追い込めば何か思い浮かぶかもしれないとも思いましたが、そう簡単にはいかないようです。



何日も考え続け、それでも思い浮かばないので御仏にお祈りをし……。


それはある晩のことでした。
 


祈り疲れた私は、外の空気を吸おうと戸を開けました。
 

するとどうでしょう。
目の前には言葉にできないほど美しい風景が広がっていました。


静かな夜。
眼下には巨大な琵琶の湖。
そこに映るのは――
 


私は空を仰ぎ見ました。


冷たく輝く白い月は、痛いほどに私を照らしていました。



月というものは、こんなに美しいものだったでしょうか。



私は、今までの人生で何度も見たはずの月にただ見惚れていました。



力強く輝きながら、どこか儚さをも感じさせる。
その白い輝きには人を引き付けるものがあるのに、尊すぎるその輝きに人が触れることは敵わない。


なんて寂しい存在だろう、と私は思いました。


もしかしたら抜きん出て輝くものには孤独な運命が待っているのかもしれません。
 


その時です。


私の中にこれ以上のものはないと思えるような、そんな物語が閃いたのです。
 


それは困り果てた私に、御仏が情けでお授けになったものだったのかもしれません。
 


私は早速書くものを探しました。
朝起きて見た夢を思い出すかのような感覚でした。


早く文字に起こさなければ忘れてしまう。
そんな焦りを覚えながら、私は筆と墨を見つけましたが、物を書くのに十分な紙が見当たりません。


私は御仏にお詫びしつつ般若経を手に取りました。
 



今はこうするしか方法がないのです。
 


私は筆を執りました。


これが私とこの物語の長い付き合いの始まりだったのです。
 







あれは、いつの御代のことだったでしょうか――…



序幕.「私と光君との出会い」

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