怜一郎

こんばんは

優しい声で挨拶されて、あたしは思わず顔を上げた。
 
目の前では、高価そうなスーツをピシッと着こなした、背の高い青年が柔和な笑顔を浮かべている。

少し細身ではあるが、それがタイトなスーツにはよく似合う。

そしてなにより、その整った顔立ちは目を引いた。

少し長めの黒髪の下の、切れ長の目は何処か冷たく感じられるが、微笑むとあたたかみが増して、そのギャップにどきりとしてしまう。


――あたし以外にも、この笑顔にときめく人はきっとこの会社にいっぱいいるはずだ。

あん

…こんばんは。遅くまで、お仕事ご苦労様です

バイト先の清掃会社から、この会社に行くよう言われたのはつい2週間前。

とはいえ、そのバイトを始めたのも2週間前だ。


入って早々、この超大手――九条グループの本社ビルの清掃を任された。

大きいビルだけあって、一緒に働いているスタッフの顔さえ全員は知らない。

エントランスホールがあるこの1Fをともに掃除している主婦の大森さんと、フリーターの下田さんぐらいしか顔見知りもいない。

ふたりともあたしに対して深入りはせず、かといって冷たいわけでもなく、一定の距離を保ってくれている。

本当にいい人たちで、ここは本当にいい職場だ。
 

ただひとつ、引っかかることはある。

怜一郎

零川(れいかわ)さんもお疲れさま

それは、今あたしの目の前で優しい笑顔を浮かべる青年である。


彼の名は九条怜一郎(くじょうれいいちろう)さん。

名前からわかるとおり、この九条グループをまとめ上げる九条グループの人間だ。


九条グループは、もともとは江戸時代から続く薬屋で、戦後に化粧品業界に手を出してからはみるみるうちに大きく業績を伸ばした今では日本屈指の超大手グループだ。


九条グループの傘下には、江戸時代から続く呉服屋で、現在は洋服も取り扱っている一色屋や、海外でも人気のジュエリーブランド、Jewellery Kokonoe、ホテル王とも称されるHotel Ninomiyaなどがある。


どれも国内で知らない人はいないほどの有名会社ばかり。
 

そしてこの九条さんは、そんな九条グループの一人娘の、たった一人の息子。


上にふたりの姉がいるが、いちばん上の姉はデビューしたてのミュージシャンに金を貢いで勘当同然に家を追放され、二番目の姉はとある有名大学で研究をしており経営には全然興味がないため将来は…と言われているらしい。


ちなみにこれは「玉の輿のチャンスよ♪」と大森さんと下田さんが教えてくれたおせっかいな情報のほんの一部だ。
 

そんな人が、どうしてあたしなんかに…

怜一郎

あれ、ピアスは?

ごく自然な動作で、九条さんはあたしの髪を耳にかける。

あらわになった耳たぶに、九条さんの冷たい指先が当たって思わずあたしは固まった。
 

この仕事をはじめたその日から、あたしは何故か毎日、この九条さんに話しかけられている。


今は午後9時を少し過ぎた頃。


あたしの仕事か始まってすぐのこの時間帯、決まって彼は帰る時間で、あたしに声を掛けていくのだ。


はじめは偉い人なのにこんなあたしにも声をかけてくれるなんて優しい人だな、程度にしか思っていなかったが、おかしいことに気がついた。


九条さんは、大森さんや下田さんがいても挨拶をする程度で、あたしの時みたいに長話はしない。

あたしとの長話も回を重ねるごとにさらに長くなっていき、スキンシップも増えてきた。


そして今週に入ってからは、このプレゼント攻撃だ。
 

普通の女の子ならあたしに気があるのかもしれないとか、そんな風に思うんだろう。


――けど、あたしはそんな思考回路が育つほどお幸せな暮らしはしてこなかったし、かわいくないし、スタイルも良くない。
モテた記憶もない。


そしてなにより、あたしには後ろめたくなる秘密がある。
 

だから、よけいに怪しいものに敏感になっているのかもしれない。

怜一郎

…ふふ、可愛い反応だね

からかうような言い方に、あたしは恥ずかしくて逃げ出したくなった。

絶対、顔も真っ赤になっているに違いない。


そんなあたしの反応を楽しんだあと、九条さんは少し悲しそうに目を伏せて訊いてきた。

怜一郎

あのピアス、もしかして気に入らなかった?

あん

い、いいえっ…
本当に素敵なデザインで、あたし、嬉しかったですっ

怜一郎

じゃあ、どうしてつけてくれないの?

あたしは、ぎゅっと自分の仕事着を握りしめる。

あん

あたしには、本当にもったいないくらい素敵だからですっ
…こんな服には似合わない…

それに、そもそもあたし、地味だからっ、あのピアスがもったいない…

怜一郎

…そんなこと、言わないでよ

1.始まりはひとつの嘘(1)

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