18│近づく距離

小さな体からは想像できないくらいの速さで駆け抜けたクロニャは、そのまま学校の外に出て、バスに飛び乗ってしまった。

クロニャを追いかけるようにしてバスに飛び乗ってすぐ、携帯ににゃいんの通知が来る。

雨音光

レインです。

そちらの黒猫さん、何を勘違いしたかは知らないけれど、たぶん僕の母を見て僕の彼女だって叫んでたんだと思うんですよね

雨音光

まあ確かに、いきなり家の中に知らない猫がいたら驚くと思うんですけど

雨音光

でも、はやとちりすぎるよ、バーカ

雨音光

って伝えておいてください

足元にいるクロニャに目配せして、携帯を振ってみせる。

肩で息をしているクロニャは、足元から私の肩までよじ登り、携帯を覗きこんだ。

クロニャ

……もう会えないにゃあ

絶望の声をあげるクロニャ。

携帯電話に「大丈夫だよ、気にしてないよ」と打ち込んではみるものの、クロニャの気持ちは痛いほど理解できた。

そりゃあ、もう、恥ずかしくて会えないと思ってしまうだろう。


クロニャはずっと、私にしがみつくようにして、バスに揺られていた。


私は、携帯をしまって、手すりに捕まりながら窓の外をじっと眺めていた。

雨音光

明日、会える? 

レインとクロニャのことで

雨音光

今日のクロニャがいきなり走っていっちゃったのはびっくりしたよ。

レインが、なんでだろうってずっと悩んでるんだ。

心当たりはないみたいで……この前二人きりで話したときは、本当に何もなかったみたいなんだよね、ただ、なんでもない話をしてたみたい

夜、先輩からの通知に、私は思わず笑ってしまった。


レインも先輩も、クロニャがレインのことを好いている、という発想にはならないようだ。




クロニャはたぶん、レインを異性として意識している。


この前先輩と私がギクシャクしたときに、真っ先に動いて、仲をとりもってくれたその姿に、感動したのだろう。




いつもはツンケンしている彼が、優しい一面を見せてくれて……私がクロニャでも、たぶん、ちょっとドキッとしてしまう。


噂の真ん中にいる人は気がつきにくい、と舞が言っていたように、恋心を抱かれている相手自信は、気がつきにくいものなのかもしれない。




ベッドの隅でまるくなっていじけているクロニャに、声をかけてみる。

川越 晴華

明日、会いたいって、レインが

少しだけ大げさに言ってみると、クロニャはますますまるくなった。

川越 晴華

会いたくない?

クロニャ

会えないにゃ

川越 晴華

でも私は先輩に会いに行くよ

クロニャ

にゃんでにゃあー!

川越 晴華

だって、先輩が会おうって言ってくれるの嬉しいもーん

少しだけ意地悪を言ってみるけれど、こうでもしないとクロニャはレインに会ってくれないだろう。


クロニャはレインのことを好きだ、と確信に近い思いを持っている私は、助け船のつもりでそう言ったのだけれど。

クロニャ

じゃあ、わたしは屋上に出ずに、校内で待ってますにゃあ

クロニャはそう言って、ぷいっと顔をそむけてしまった。


クロニャもなかなか意固地だった。

レイン

……いいですよ、あいつがいないならいないで。

晴華さんに訊きたいことがあります

次の日の屋上で、クロニャは校内で待っているということを伝えると、レインは露骨に不満そうな表情になった。


一方の私の隣に座っている先輩は、困ったように笑っている。

レイン

昨日、僕の彼女が家にいるって勘違いしたみたいですけど

レインがじとり、と私を見つめる。

お、レイン、察したかな? と思ったら。

レイン

僕に彼女がいると、何か不都合でもあるんですか?

思わず、がくっ、と体の力を抜きそうになってしまう。


レイン、鈍感というか、ずれているというか!

川越 晴華

えーっと……

どうしたものか。先輩に視線を送ると、先輩は困ったように首をかしげた。


先輩らしからぬかわいいしぐさだけど、先輩もクロニャの気持ちには気がついていないようだ。




えーっと。

川越 晴華

……この前みたいに二人きりで話したときに、ふと、レインに彼女がいるんだったら申し訳ないなって思ったんだと思うよ。

ほら、言い合いはよくしてるけど、二人は仲良しでしょ?

我ながら、きれいな理由が出てきたものだと思う。


嘘のような、嘘でないような。

ぎりぎり真実に触れているというか。


私の言葉に、ええっ、とレインは大きく口を開けた。

レイン

あいつ、そんな気の使い方をしてくれてたんですか? 柄にもない

川越 晴華

そう、かな?

レイン

そうですよ、それに、僕に彼女、いませんし。

変な気を使わなくていいって、伝えにいってきますね

レインがぴょんと先輩の肩から飛び降りる。

止める間もなく、レインは風のように走っていってしまった。

そんなレインの背中を見ながら、先輩が柔らかく微笑む。

雨音 光

嬉しそうだ、レイン

川越 晴華

え、そうでしたか?

うん、とうなずく先輩。

私にはわからない微妙なレインの表情の変化を先輩は読み取ることができるようだ。


先輩の横顔を見つめながら、ひとつの名案がぽん、と浮かぶ。

今が、先輩に彼女がいるのかを確認するチャンスだ!

川越 晴華

せ、先輩

雨音 光

ん?

川越 晴華

実は私も心配してたんです。

もし先輩に彼女がいるなら、いつも二人で会ったりしてる状況、迷惑じゃないかなって……

雨音 光

俺に彼女? いないよ

朗らかに笑って、さらっと彼女がいない宣言をする先輩。


よかった! と思わず言いそうになってしまい、あわてて開きかけた口を閉じる。

雨音 光

川越さんは?

川越 晴華

へ?

雨音 光

川越さんは? 付き合ってる人

川越 晴華

い、ませんよ! いないです!

雨音 光

そっか、よかったー

川越 晴華

よ、よかった?

よかったって言った!? 

言いましたよね、先輩! 

心臓がばくばくとばかみたいに跳ねる。


彼女がいるのかどうか訊いたときはやけに冷静だったくせに、なんなんだ、この心臓!

雨音 光

だって、猫見っていう俺達だけの秘密作っちゃったり、最初助けようとして思いっきり抱きしめちゃったしね……

言いながら少し照れている先輩。

自分で言ったのに照れるのはずるい!

雨音 光

だ、だから、もし付き合ってる人がいるのなら、謝らなくちゃなあと思ってて。

聞かなきゃなって、タイミング探ってたんだ。

まあ、付き合ってる人がいなかったら抱きしめていいってわけじゃないどさ

あはは、と笑う先輩に、私もつられて笑ったけれど、本当はそんな心の余裕はなかった。


抱きしめられたこと、やっと思い出す頻度も少なくなってきてたのに!

川越 晴華

く、クロニャとレイン、大丈夫ですかね

話をそらす。

長いこと戻ってこないから、少しだけ心配だ。

川越 晴華

まさかけんかはしていないと思いますけど……こっそり、覗きに行ってみましょうか

と、立ち上がろうとしたら、先輩に止められた。




腕を、ぐいと捕まれて。

川越 晴華

せ、先輩!?

抱きしめたうんぬんの話の、直後だ。

嫌でも意識してしまう。

先輩も、とっさの行動だったようで、あっと私から目をそらす。

雨音 光

いや、レインは大丈夫だと思うから……でもあいつ不器用だから、少し時間がかかると思って

川越 晴華

な、るほど

すとん、とその場に座り込む。


先輩はすぐに手を離して、でも、その手は私のすぐ隣にとん、とおいて……近い。

先輩が、近い。

雨音 光

あのさ……

川越 晴華

は、はい、なんでしょう、か

先輩が、私の目をじっと見つめてくる。


私は、その視線にとらえられたが最後、逃げることができない。

雨音 光

川越さんは……あっ

川越さんは、あっ?

混乱している私から、先輩は静かに離れて、

雨音 光

レイン達、終わったみたいだ

と私の後ろを指差した。

ふりかえると、二人がこちらに駆けてきているのが見えた。


私達のすぐそばまで来ると、ほら、とレインがふわふわのしっぽでクロニャを急かす。

クロニャ

やめるにゃ、レイン……えっと、仲直りしました、にゃあ

レイン

というかこいつが勝手にギャーギャー騒いでただけですけど

クロニャ

う、うるさいにゃあー!

雨音 光

よかったね

先輩が、いつもみたいに柔らかく笑うそばで、私はどきどきしていた。

今、先輩は私に何をいいかけたんだろう?

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