……一体、何をやってるんですか

 目の前の情事の一部始終を見た僕は、なんとかこの言葉を吐き出した。

山の神さま

この子に力を分けていたのいたの

力を?

山の神さま

そう。この子は今、信仰するヒトがほぼ居ない神になってしまって、私が定期的に力を分け与えないと生きていけないのいけないの

はあ、そうなんですか。でも、なぜ信仰が?

山の神さま

それはね……何百年前だったかしらかしら。この子への信仰が揺らぐ出来事があったのあったの

信仰が揺らぐ?

山の神さま

ええ、流行神に替り神といって、人々の信仰が、周りで流行の神さまへの信仰に替わることがあるんだけどだけど

山の神さま

それがこの穂波山にもおこったのおこったの

流行神がこの山にも?

 僕と山の神さまが話していると、横になっていた狐の神さまが体を起こす。

穂波さま

……お前、稲荷神を知っておるか?

 そして僕に尋ねる。

ああ、お稲荷さんですか? 確か、狐の神さまですよね

 やはりな、と狐の神さま。

穂波さま

違う、あれは稲荷神の使いじゃ。しかし、実際は狐神と『誤認識』されておる。これは徳川の世からの誤解じゃ

え、そうなんですか

穂波さま

だいたい、わらわは油揚げよりも肉の方が好みじゃしの。何を好んで豆を浸けて茹でて砕いて出た汁のなれの果てを食わねばならんのじゃ。肉をよこせ肉を

山の神さま

えっと、油揚げはともかく、その誤った稲荷神の狐信仰が流行神となって、この子の狐信仰と『入れ替わった』の

 それは、神さまが死にいたる寸前の話。

 稲荷信仰は、江戸時代に商売繁盛の神として爆発的な広がりを見せた。

 町民文化が花開いた時代だ。稲荷信仰は、家を持ち、家を広げ、そして家を守る、そのすべてを備えていると言っても良い。

 「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」とも呼ばれるくらいに、稲荷信仰というものは一般的なものとなっていた。

 ただ、その弊害として信仰が変容し、稲荷神=稲荷狐という存在のすり替えが起こってしまった。

 人は、間違える生き物だ。正しく伝えるようにしなければ、簡単に情報は書き換わる。

 言葉の意味がほんの一つの伝え間違えや、解釈の間違えで、誤った内容が本当になるように。

穂波さま

まさか、使いの狐に、神であるわらわが殺されることになるとはの……

 穂波の天狐は、豊穣と円満の神として穂波山一帯の信仰を集めていた狐の神獣である。

 農業神でもあり、屋敷神でもある稲荷神=稲荷狐と重なりすぎていた。

 似たようなものであれば、より普及している、流行っているものを選択する。

 ヒトとはそういうものだ。穂波の天狐はそういう意味では、ヒトを恨んではいなかった。

 ただ、あれだけ愛したヒトが、自分を忘れることが哀しかった。

 ただただ、寂しく、空しく、寒かった。

穂波さま

この地に稲穂が垂れてから幾年月。天狐となったわらわも、ここで果つるのみ、か

 穂波の天狐と呼ばれ、遠方の村からも田の守り神として参拝が来るほど、彼女は信仰されていた。

 その棚田で実った重く、濃く育った穂は、殿上人への献上品とされるほどのものだった。

 しかし、今となっては信仰を失い、天津の力もなくなり、体は衰弱するのみ。

 生きたまま神となった生き神は、信仰を失うとこの世の摂理に従い、不老不死を失う。

 つまり、行き着くところは、死。

 それは、神獣である穂波の天狐も例外ではない。

 消えゆく神域の中、その小さな狐は身を丸めて、自らの死を待った。

 心残りは、今年の稲穂と、それを育て、未だに自分を信仰してくれている一族の存在。

 そんな時だった。

山の神さま

生きてる生きてる? 狐さん狐さん

 彼女――山の神さまが来た。

穂波さま

なんじゃ……お主は

山の神さま

あ、生きてる生きてる。よかったよかったぁ

穂波さま

だから、何者じゃ、お主は

山の神さま

えっと……そうだそうだ。

遠く遠くの近く近く、
我らの源と、
我らの祈りと、
我らの始まりと、
我らの終わり、
蜻蛉は飛びし日が昇る國へ、
彼の地から我が子らの祖を導いたモノの末裔よ。
我らは我は、子らの國を司る者なり

穂波さま

……なんじゃ、國神のモノか

山の神さま

そうそう。穂波ちゃんって呼べばいいのかないいのかな

穂波さま

……好きにするのじゃ。わらわは、もう眠い……

山の神さま

そうはいかないかなかな

穂波さま

なぜじゃ……?

山の神さま

貴重でこんなにかわいい狐の神獣さまを、ただの流行神で失うなんてわたしの良心が痛むから痛むから

穂波さま

……ふん。別にもう良い。わらわは長く長く生きた。

宇迦の小娘の使いにこの地を奪われるのは癪じゃが、それでこの地の者達が幸せになるのであれば、治める神としても本望じゃ

山の神さま

本当に?

穂波さま

そうじゃ。信心失えば神は死ぬべし……なんにせよ、この国には『神が多すぎる』からの。その内のたかが一匹が死ぬだけ

山の神さま

『神が多すぎる』ことを受け入れるのも、この国の美徳よ美徳よ。
大丈夫、今はそうでも、いつか貴女は、貴女を必要とする時と人々に出会うはず出会うはず

穂波さま

……ふん、どうかの。
しかし、どうしようもないのじゃ。わらわの巫一族の巫は絶えてしもうた。わらわの巫はもうおらぬ

 巫というのは、神主や巫女など、神と人々をつなぐ仲介人であり、常人の数十倍の信仰の力を捧げることが出来る者のことだ。

 現代では、呼び名も解釈も違っているが、神を世界と繋ぐ才能を持つヒト、と言う意味では同じだ。

山の神さま

だったら、わたしが力をあげるあげる

穂波さま

な、何をいっておるのじゃ

山の神さま

大丈夫大丈夫。わたし、力はありあまってるからから

穂波さま

なぜ、そこまでするのじゃ

山の神さま

理由はもういったでしょういったでしょう?

穂波さま

……わかったのじゃ、これ以上問うこともちからもない。お主のことば、信じるのじゃ

山の神さま

ありがとうありがとう。
では、来たる日まで。
穏やかな春を待ちわびながら、お休みなさい。
穂波の天狐さま

 こうして、突如やって来た山の神と穂波の天狐の関係が始まった。

――で、そんな爛れた関係が二百年余り続いた、と

 僕はその神さまが九死に一生を得たというある意味貴重な体験談をこう締めた。

穂波さま

爛れたとかいうでない! 口以外は許しておらんぞ、わらわは!

山の神さま

穂波ちゃん、堅いのよ堅いのよ。今でも押さえ込まないとさせてくれないのくれないの

穂波さま

当たり前じゃ! だいたい、わらわは――って何を言わせるのじゃ

 ぱあん、と穂波さまが山の神さまの頭を叩く。

山の神さま

痛いわ痛いわ。別に言わせてはないわないわ。

山の神さま

ああ、だけど、穂波ちゃんはいつもいつまでも初な反応を見せてくれて楽しいわ愉しいわ

穂波さま

愉悦に浸るな馬鹿者が!

 ぱこーん、とまた小気味よい音が響いた。

……お二人、仲が良いことで

 二人の喧噪がやむまで、僕は囲炉裏のそばでゆっくり待つことにした。

ところで、その後稲荷信仰はどうなったんですか?

 山の神さまに入れていただいたお茶を飲みつつ、僕は穂波さまに尋ねる。

穂波さま

今でもわらわの代わりに近隣の田畑を護っておるのじゃ。力はわらわの全盛期より劣るがのう

……二百年余りも時間があったのに、信仰復活とか布教とかそういう活動はしなかったんですか?

穂波さま

もちろん、したのじゃ。ほら、山に咲いている桜があるじゃろ?

ああ、あれですか。綺麗ですね。来た当初はホラーっぽいところはありましたが

 すべての桜に注連縄という光景は思い出すと今でも鳥肌が立つ。

穂波さま

あれはこやつの信仰力を効果的に集めるために、ここの一族に植え付けて貰ったものじゃ

山の神さま

そうそう。アレのおかげで、穂波ちゃんへの力の供給が楽になったのなったの

なるほど、あれはそういう桜だったんですね。……あれ、でもそれって、穂波さま自身への力には

穂波さま

いいじゃろーわらわへの信仰なんて、どうせ雀の涙じゃし?

こやつから力を貰っておけばこの山くらいは治めることはできるのじゃし?

気むずかしい神事に出たりとか、遠方へ天津力を使ったりとか、しなくても良いのじゃし?

わらわは陽の当たる縁側か、囲炉裏のそばで丸まって寝ていたいのじゃ。

肉と魚と団子があれば言うこと無しじゃな。団子はみたらしで頼むぞ。うんと濃く甘いやつじゃ

……もしかしなくても、この神さま……

 僕は、流し目で山の神さまをじっ、と見つめた。

山の神さま

あはは、ちょっと甘やかしすぎたかしらかしら

 冷や汗をかきつつ、明らかに目をそらす山の神さま。

ちょっとじゃないですよね。かなりですよね。神さまが神さまのヒモ生活なんて、もうダメダメですよね、神さまとして

 昔、お仕えしていた一族の人々が、超絶ニート神と成り果てた狐神さまを見ればなんと言うだろうか。

山の神さま

……否定はしないわしないわ

穂波さま

ほっほっほ、何を言われようとも、わらわは今の生活を捨てる気は無いぞ。

接吻さえ我慢すれば、ここは桃源郷じゃ!

陽はあたたこうて、夜は肌心地よい寒さ、季節に合わせた山の幸がたんと出る!

さすがわらわの神域じゃ!

……だめだこの神さま、早くなんとかしないと

 これはもう、この神さまを『駄目神さま』と言わざるを得ないだろう。

山の神さま

でも、困ったわ困ったわ

 ふう、と山の神さまがため息をついた。

穂波さま

困ったとはなんじゃ?

 困り顔が珍しいのか、穂波さまは怪訝な顔をする。

山の神さま

実はその神域、無くなりそうなのよなのよ

穂波さま

な、何でじゃ

 その言葉への返答に迷う山の神さま。目線を縦横斜めに動かし、しばらくの沈黙のあと、答えた。

山の神さま

あのね、穂波ちゃん。
実は、穂波ちゃんの棚田、もうお米を作ってないのないの

穂波さま

な、な、な

穂波さま

なんじゃと――――――――?!

 そんな重要なことに気づいてなかったのか。
 どれだけ引きこもってたんだこの神さまは。

 僕はがくりと肩を落とした。

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