第十三話 ポートレート
第十三話 ポートレート
お兄様、大丈夫ですか!
ジル様、手をお貸しくださいませ
月光館に帰り着くと、俺は急に安心して足の力が抜けてしまった。
ハイネに噛まれた傷口が痛痒くてじんじんと熱をもっている。
さっき戦ったばかりの北鎌倉のほうが体力を消耗しているだろうに、
先にへたるなんて自分が情けない。
おやおかえりー、みんなお揃いでどこで買い物してき……
呑気な足取りで顔を出したジルは、俺たちの様子を見ると血相を変えて走ってきた。
何があった……!?
北鎌倉のスーツは埃まみれでボロボロだし、俺の胸元は自分の血で濡れている。
ご近所の誰かが見たら通報されるレベルだ。
ジルは俺の手をいきなりつかんで首から引っ剥がし、噛み傷を見た。
すぐ間近にあるジルの白い顔が、みるみる蒼白に――文字通り青くなっていくのが分かった。
ハイネ……
ごく小さくだけど、ジルはその名をつぶやいた。
!?
次の瞬間、俺は初体験をしました。
!!
!!!!
お姫様だっこ!!
お姫様だっこであります!!
きみたちもいらっしゃい
ジルは七星たちにそう言うと、軽々と俺を抱きあげて歩き出す。
!!!
!!!!!!
いや!!
なんで拍手する!!
リビングに行くのかと思ったら、二階の一室に連れて行かれた。
ここはことさら少女趣味な部屋で、俺は心の中で"七星の部屋"と名付けていた。
子供の頃の七星の部屋によく似ていたし、彼女がこの屋敷に住むならこの部屋が一番いいと思ったからだ。
まあ、思うだけならいいでしょ。思うだけならさ。
そのお姫様ベッドに、俺はとても大切に寝かせられた。
お姫様だっこをされただけでもアレだが、天蓋のついたベッドにそっと優しく横たえられるなんて……
お、俺の中のリトルプリンセスが呼び起こされてしまうではないか!!
腐女子二人は絶妙な距離感で俺たちを見守る体制に入っており、ドアの影で目をぬらつかせるばかりで部屋の中に入ろうとしない。
北鎌倉くん
はっ、はい!!
何か、消毒できるものはあるだろうか。
無ければ蔵に強い酒があるはずだから持ってきてほしい。
それとファブリーズを。
承知いたしました
弾かれるように北鎌倉が走って行った。
元気だなああいつ。
七星、こちらにおいで
もじもじと入ってこない七星を、ジルは遠慮していると受け取ったようだ。
ただの遠慮ではなく、あれは腐った遠慮なのだが。
ここは夜子が使っていた部屋なんだよ。
だから君こそがこの部屋の正しい使い方を覚えるべきなんだ。
そこのドレッサーの、真ん中の引き出しを開けてみなさい
ようやく七星はそろりそろりと部屋に入ってくると、言われた通りに白いドレッサーの引き出しを開けた。
これは…ネイルかしら。
…とてもキレイだけど……すごい数
七星が少しとまどったような視線をこちらに向けた。
青、紫、緑、黒……こんな奇抜な色、おばあ様お使いになっていたかしら
そのドレッサーには仕掛けがあって、正しい小瓶をマス目に入れると、鍵が開くんだ
!
ドレッサーの右隅には、メイク品を置くためにしては小さすぎる規則正しい窪みが4つあった。
たしかにネイルを縦に入れるにはちょうどいい大きさになっている。
きみなら分るかもしれない、七星。
やってみなさい
ジル様、お持ちしました
北鎌倉が救急箱とファブリーズを抱えて駆け込んできた。
ありがとう
ジルが真っ先に受け取ったのは、救急箱じゃなくてファブリーズだった。
俺がぽかんとしていると、ジルはおもむろに俺をファブった。
ブフォァ、何す……いててて! 目にしみる、傷にしみる……!!
ファブリーズは現代の聖水だ。実によくできている
俺の反応なんかおかまいなしでジルがシュッシュする。
吸血鬼に噛まれたら吸血鬼になるというだろう。あれは本当なんだ
消臭の霧をあびながら、俺は少し体をこわばらせた。
獲物から血とオドを吸収するだけでなく、我々は自分の牙からオドを血管に注入するんだ。
牙が深く、長い時間入っていれば入っているほど、私たち吸血鬼は相手に自分のオドを多く注入することができる
注入したらどうなるんだよ
意のままにできる。ゆくゆくは仲間にできる、ということだ
完全に相手を吸血鬼にするには、血を全部吸わなければいけないんですの?
そうだ。
相手を完全体の吸血鬼にするには、
赤い血をすべて吸い取って、自分のオドである青い血と入れ替えてしまう必要がある
ファブリーズの噴射は止まらない。俺はだんだん湿気っぽくなってきた。
もちろん、一日で血を吸いきることなどできない。
我々は、獲物と長い時間一緒にいることが必要なんだ。
俺の頭をよぎったのは、ハイネが一緒に暮らしているというあのオトコのことだった。
だが、一瞬噛んだだけでも多少のオドの注入は可能だし、獲物の周りに自分のオドをからみつけることもできる。
動物で言うマーキングのようなものだな。
だからまず、聖水で清める必要があるのだ。
そのま放っておくとどうなるんだよ
ジルは俺を見下ろしてにやっとした。
ハイネのことばかり考えてしまうようになる。
……それは困る。
北鎌倉が人間の耳では聞こえない周波数で叫んだのが聞こえたような気がした。
いいかい、七星たちも覚えておきなさい。
吸血鬼に噛まれたら、まずファブることだ。
これは他のモンスターや幽霊にも効く。ストーカーにも効くぞ。
効くか!!
むせかえる俺をさんざんファブった後、ジルと交代して北鎌倉が傷の消毒をしてくれた。
アルコール消毒は骨身にしみて、しばし俺は自動絶叫マシーンと化した。
七星はカチャカチャとネイルを枠の中にはめて、謎解きを続けていた。
何度も色を変えたり順番を変えたりしていたが、やがてふーっと息をついた。
開きませんわね。おばあさまがいつも使っていた色がキーなのかと思ったのに
しばし、誰も何も言わなくなった。
七星が瓶を選ぶ音と、傷の治療を終えて、北鎌倉が薬を片づける音だけが響いていた。
…………
…………
…………
…………
ジル。ハイネってやつが、俺たち家族をバラバラにしたのはジルだって言ってた
俺はぽつりと、平坦に切り出した。
親のカタキとよく一緒に暮らせるな、
って言われた
七星と北鎌倉の動きが止まっていた。
それ、本当なのか?
……本当だ
俺はジルと視線を合わせられない。七星が何か言おうと息を吸い込んだが、俺は続ける。
一言で済まさないでよ。
そんな単純な話じゃないんだろ。
行きつく答えがどんなモンでもいいよ。
最初から最後まで、何があったのか話してくれよ
できるだけ、できるだけ冷静に。
感情が、あふれ出てしまわないように。
俺はジルから説明が聞きたいんだ
ぎりぎりのところでこらえて、俺は、一番言いたかった言葉を言えた。
ああ、そうだな……
ジルは天をあおいで深い息をついた。
もっと早く話すべきだった。アマネが松彦と志摩の息子だと分かった時に、すぐ切り出すべきだった。
アマネといるのが楽しくて、ずるずると引き延ばしたのは私の責任だ
ジルは俺を見て、泣いているような微笑んでいるような、ひどく情けない顔で頭を下げた。
すまない
!!
その言葉を合図に、七星が何かにとりつかれたようにガチャガチャと瓶を探り出した。
スィートピンク
マゼンダ
ナイトブルー
イエロー
お嬢様!?
おばあさまも……きっとおばあさまも
ジルおじさまと同じ気持ちだったと思うの!
だからキーワードは、「すまない」か「ごめんね」か、どちらか!!
七星がイエローを枠の中に入れると、カチリと音がした。
次の瞬間、ドレッサーの天板が少し浮いた。
スライドすると、隠されたスペースが顕わになる。
そこに入っていたのは、一冊の革張りの冊子だった。
ああ……
七星は感嘆の声をもらして、大切にそれを取り出した。
ジルはそれを受け取ると、一ページ目を開き、愛しげにその写真を撫でてから俺に手渡した。
…………。
アルバムの一ページ目は、家族のポートレートだった。
その写真の中央に写っているのは、優柔不断そうな目元が俺と良く似た、和服の男だった。