――小学校の頃だった。酷く汚れた格好の兄が、どこかから一匹の子犬を拾ってきたのだ。「こいつの名前はポチだ!」なんて、その顔が凄く嬉しそうで、俺は何も言い出せなかった。
 今思えば、両親は絶対飼うことを許してくれたと思う。けれど、何故かその時は親にバレたらいけないと二人してそう思っていた。だから、こっそり給食の余りを持って帰ったり、家から適当に食べられそうなものを持ってきたり、時々は自分達の少ない小遣いで餌を買って食べさせた。雨風の凌げる場所がいいだろうと、子犬を入れた段ボールは、いつも近所の高架下に置いておいた。
 兄と二人で子犬を飼う。しかも、こっそりと。大したことではないのだが、その時の俺達にとってそれは、とても罪深い事だった。
 ある日の帰り、いつもの通りに子犬の様子を見に行った俺は目を疑った。段ボールの中に、子犬がいなかったのだ。
 その日はたまたま俺一人だけで子犬の様子を見に行っていて、兄はその場にいなかった。いつも兄の後ろに居た俺は、初めて一人でどうにかしなければいけない状態に立たされてしまった。俺は必死に子犬を探した。名前を呼んだ。けれど、子犬は見つからなかった。俺が諦めて家に帰ろうとした時、ふと傍にゴミ袋がいくつか固まっておいてあるのに気づいた。きっとこの辺のホームレス達が捨てたゴミだろう。そしてその袋の傍には、毛むくじゃらの塊が落ちていた。――それは、俺達の飼っていた子犬だった。どうして俺がすぐさまそれをいつもの子犬だと判断出来なかったのかは今でも覚えている。子犬は、子犬とは分からない形になっていたのだ。もうすっかり赤黒くなった血が、ほんの少しだけ子犬の周りに散っていた。きっと、ここじゃないどこかで、子犬は形を変えられたのだろう。「なぁ、ポチは元気だったか?」と、後で兄にそう聞かれ、俺は黙って頷くことしか出来なかった。
 その翌日、近所で野良の動物を虐待していた男が逮捕されたと、ニュースでやっていた。兄は黙って俺の顔を見た。泣き出す俺に、兄は何も言わなかった。ただ黙って、俺の頭を撫でてくれた。

山村聡子

どうか……なさったんですか

 聡子の声で我に返った音耶は「済まない」と言いながら、過去の記憶を振り払うように頭を小さく振った。聡子の「犯罪を共有する絆」といった言葉で、妙な過去を思い返してしまったらしい。

駿河音耶

ああいや……何でもないんだ、続けてくれ

山村聡子

……わかりました。私は、元々黙っていればいいだけの立場でした。ただの、目撃者なんです

駿河音耶

目撃者?

山村聡子

はい……。彼は言っていました。「黙っていてさえくれれば、お前は仲間だ」って

駿河音耶

……彼、とは?

山村聡子

……すみません

 音耶の疑問に、聡子は謝罪で返した。それはつまり、現状でも言えないということである。もしかすればいうことによって彼女に何らかの危害が加わるのかもしれない。或いは、彼女がまだこの絆に関して未練を持っているのかもしれない。とにかく、その彼とやらが首謀者的立場に居ることは音耶にも理解が出来た。

駿河音耶

わかった。話を切って済まない

 音耶が一言謝りを入れると、聡子は小さく頷いて続きを話す。恐らく名を伏せて話すにしろ彼女はかなり危ない橋を渡っているはずだ。音耶は外にも少し気を配りつつ、話を聞いた。

山村聡子

わ、私は、見てしまっただけなんです。利里ちゃんが、死んでるとこ……。頭から、血を流してて……ぐったりしてた……

 思い出したのか、辛そうな顔をする聡子。しかし、彼女の言に音耶は疑問を持つ。

駿河音耶

ぐったり? 発見された花野利里は頭部だけだったはずじゃ――

山村聡子

え……? わ、私が知ってるのは、利里ちゃんが、頭から血を流してるだけで……他に怪我なんて…… 

 聡子に嘘を吐いている様子はなかった。むしろ、彼女は本気で困惑している。とすると、彼女が見たのはあくまで「花野利里が頭から血を流して死んでいる」瞬間なのだ。

駿河音耶

彼女が見たのはまさか、遺体を隠す前の犯行の瞬間という事か? 花野利里の遺体が切断される前の時点を、彼女は知っているはずだ

駿河音耶

その話、もう少し詳しく話して欲しい。君を凶行に走らせた犯人を、君の口から聞かずとも、当てて見せるから

山村聡子

えっ……?

駿河音耶

無理して話す必要はない。それでも、“俺”なら、分からなくちゃいけないんだ。

 自分に言い聞かせるようにそう呟いた音耶は、人懐っこい笑顔――まるで恵司のような笑顔で聡子に言った。

駿河音耶

よかったら、ちゃんと話を聞きたい。出来れば、事件とは関係なくても、君達の話を聞かせて欲しいな

 それは、恵司がよく行う方法だった。多くの情報を得、且つ信頼関係を築く。探偵としてのスキルというよりかは、彼自身の性質に近い能力だ。そのため、音耶はあまり得意としていなかったが、口下手そうな聡子に対してなら自分でも出来ると思ったのだ。というか、今はそうすべきであると判断したという方が近い。
 警察官としてはアウトなんだろうな、と頭の片隅で思いつつも、音耶は躊躇う聡子の手を取った。その瞬間、彼女の頬がほんの少しだけ紅潮したのを、彼は気付かないふりをして。

駿河音耶

本当なら、署までって言いたいんだけど……それだと、ちょっと話しにくいと思って。よかったら、何か奢ろうか

 自白にかつ丼は違法、というのは、もう良く知られたことだろう。ほとんどそれと変わらないことをやってしまっているなと思いながらも、自分でファミレスまで連れ出しといて払わせるのも、と音耶は聡子に声を掛ける。警察署まで連れて行って話させるのがセオリーだと分かっていても、彼女の様子や事件の現状を鑑みると、それはかなりリスキーであると音耶は判断した。彼女が署へ入る姿がその仲間とやらに見つかれば言い逃れは出来ないだろうし、あのまま家の前で話すのもほとんど変わらない。だからと言って目につく場所で話すのも、恵司が襲われた以上危険性はさほど変わらないだろうが、少なくとも聡子の精神状態に違いが出る。仕方の無い事だ、と自分に言い聞かせつつ、音耶は聡子が選んだティラミスと一緒にコーヒーを注文した。

山村聡子

あ、あの……

駿河音耶

ん?

山村聡子

す、すみません。その……ケーキまで

駿河音耶

気にしないでくれ、俺が勝手にやったことだからさ

 出来るだけ、恵司のように丸い口調を心がける。普段は敬語の癖がある音耶だが、敬語が外れるとついつい語気が強く聞こえてしまうため、少し意識して話さなければ、まるで尋問のようになってしまう。
 恵司であれば、適当な話題を振ったりも出来るのだろうが、音耶は生憎、この年齢の女の子に対してどのような話を振ったらいいのかが分からなかった。暫く沈黙が続く中、ウェイトレスが運んできたティラミスに、ようやく聡子が口を開く。

山村聡子

えっと……よかったら、一口、いかがですか?

駿河音耶

あっ、ごめん。俺、甘いものは苦手でさ

山村聡子

そ、そうでしたか……すみません

 再び沈黙。どうしたら良いものかと音耶が思案し始めると、また聡子が口を開いた。

山村聡子

わ、私の話が聞きたかったんですよね。すみません、黙っちゃって

駿河音耶

大丈夫だよ。話せることだけ、話して欲しいんだ。例えば――

 学校の話とか、と言おうとして、音耶は言葉を止めた。彼女はあまり学校に行けていないと、ハロルドから聞いたではないか。しかし、その不自然な言葉の切れ目が何を意味するか察した聡子は、少し無理するように笑った。

山村聡子

大丈夫です。お仕事、ですもんね。私、御覧の通り、お話するのが得意ではないから……学校でも、上手くやっていけなくて

 食べかけのティラミスの傍にフォークを置いた彼女は、そのまま寂しそうな瞳で続ける。

山村聡子

そんなんだから、学校の勉強も、少しついていけなくなっちゃって。近所に塾はなかったから、ハロー先生の英会話教室に行ったんです。先生は私の事を気にかけてくれて、みせりちゃんや利里ちゃんとも、ほんの少しだけ話せるようになりました

駿河音耶

じゃあ、利里……ちゃんは、友達だったのか?

山村聡子

そんな、友達って言えるほどの関係ではありません。ただ、会ったときに軽く挨拶が出来るくらいです。もし本当に友達だったら……私、今頃は寝込んでいます

 その笑顔は、ある意味で悲痛を浮かべているように見えた。恐らく、花野利里は彼女の中で数少ない友達になれる人物だったのだろう。しかし、そんな彼女は友達になる前に死んでしまった。無関係な人間が死んだとも、友達が死んだとも、恐らく彼女の中ではどちらにも当たらないのだ。だからこそ、上手く対応が出来ない。音耶には、彼女が悲しめないという事を悲しんでいる様に見えた。

山村聡子

最初に利里ちゃんが倒れているのを見た時、傍には男の子が一人、立っていました。彼は私に、「利里ちゃんが転んで頭を打ってしまったんだ」と話しました

駿河音耶

確か……その男の子の名前は、言えないんだよね

山村聡子

はい……。同じ教室に通っていても、私は彼の名前を知りませんでしたから

 成程、と音耶は頷いた。怖くて言えないのではなく、分からないから言えなかったのだ。だが、それでも“男の子が一人利里の傍に居た”というのはかなり重要な情報である。

山村聡子

彼は、「利里ちゃんは死んでしまった。だけど、彼女の死因が事故だったとしても、このままではこの教室の存続すら危うい。だから、隠してしまおう。利里ちゃんはいなくなったことにしよう。その方がずっとマシだ」って私に言ったんです

駿河音耶

確かに、生徒が死んだとあれば監督責任やらを疑われるだろうけど、それは彼女が失踪したとしても同じじゃないか?

山村聡子

私もそう思ったんです。でも、彼に、「君は同じ教室の仲間だから、分かるよね」って言われて、頷いてしまったんです……それで……

駿河音耶

彼の言葉に魅せられた君は、事件の隠ぺいに協力した。そして、それを暴こうとする“俺”を襲うとこまでいっちゃったって訳だね

山村聡子

……いくら謝っても、償えないことだとは自覚しています。でも、本当に、ごめんなさい……

 泣き出す聡子に、音耶はそれ以上声を掛けることを止めた。今彼女に声を掛ければ、それは全て彼女を責める言葉になってしまいそうだったから。

第四話 ⑪ 唯一の目撃者

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