階段下の影になっているスペースで、青年が少女を壁に追い詰めている。

それを見て私は、テレビ局の男が、強引に年若い芸能人に言い寄っているのかと思った。

だからこそ、強行的な手段で間に割って入ったのだ。

しかし、相手はただの青年ではなかった。

月城虎子

もしかして、EARTH・RAYの一ノ瀬透子と、MySTARの嵯峨山陸!?

暗がりな上、私服だったためすぐには気づかなかったが、その顔には見覚えがあった。

この二人は、アイドリズム総選挙でも上位に名を連ねるアイドルだったはずだ。

強引な手段で異性に言い寄るなんて、誰であろうと許されることではない。

ましてや、ファンに夢を与える存在であるアイドルが、そんなことをするなんて――!

月城虎子

嵯峨山陸! アイドルが恋愛をするなとまでは言わないわ。けれど、やっていいことと、悪いことがあるのよ。恥を知りなさい、恥を!

嵯峨山陸

いや、だから別に変なことしてたわけじゃなくて

月城虎子

言い訳無用!

嵯峨山陸

あっぶね!

私は手に持っていたカバンをもう一度投げつけたが、今度は避けられてしまった。

月城虎子

ええい、そこに直りなさい! その腐った性根を叩きなおしてくれるわ!

一ノ瀬透子

ちょっと、落ち着いてください! 誤解なんですってば!

無理やりにでも土下座させようとした私を、背後に庇っていた透子が羽交い絞めにして制止してきた。

月城虎子

大丈夫よ、あなたには迷惑がかからないように、うまくもみ消すから!

一ノ瀬透子

何それ怖い! ……って、そうじゃなくてっ! 今のはドラマの練習だったんです! 嵯峨山くんも黙ってないで、なんとか言ってよ!!

嵯峨山陸

そうは言っても、俺が口挟んでも火に油を注ぐだけだっただろ

ドラマの練習という声が、怒りに支配されていた頭に響き渡る。

私を挟んで親しげに話す二人の姿を見ているうちに、少しずつ透子の言葉の意味が理解できるようになってきた。

月城虎子

ドラマの……練習?

一ノ瀬透子

はい。今度、私たちが共演する深夜ドラマの番宣で、さっきまで収録をしていたんですけど、楽屋に戻る道すがら二人で話し合っていたら熱が入ってしまって。実際に、演じてみていただけなんです

月城虎子

……ナンパではなく?

嵯峨山陸

ナンパって……一応、主人公がヒロインに初めて本気の想いをぶつける、見せ場のシーンだったんだがなあ

一ノ瀬透子

それなのに突然、カバンが飛んできて……挙句、蹴るだの、そこへ直れだの……

詳しい説明を聞いて、一気に血の気が引いていくのを感じる。

予想外の行動の結果がこれだ。

やはり、善は急げよりも、急がば回れ。
急いては事を仕損じる。

私が落ち着いたのがわかったのか、透子が羽交い絞めを解いた。

月城虎子

こんなところであんな声を上げられたら誰だって誤解を……いえ、そうじゃないわね。カバンをぶつけたりしてごめんなさい。怪我はなかった?

パニックに陥りそうになりながらも、私はかろうじて冷静な意識を取り戻し、頭を下げる。

顔を上げると、陸はきょとんとした様子で目を瞬かせていた。

しかし、私と目が合うなり、その表情は明るい笑顔へと変化していく。

嵯峨山陸

これくらい、どうってことねえよ。こっちこそ、誤解を招くような真似して悪かった

清々しい声音でそう言いながら私の投げたカバンを差し出してくる陸に、今度はこちらがまじろぐ番だった。

こうしてきちんと言葉を交わしてみると、見た目の派手さとは裏腹に、さっぱりとした気性の好青年という印象を受ける。

一ノ瀬透子

というか、あなた一体誰なんですか?

透子はやや距離を取りつつ、私を不審げな眼差しで見つめていた。

先走ってとんでもない行動を取った後なので仕方がないとはいえ、警戒されてしまったようだ。

まずはこちらの身分を証明しなければ……。

竜胆あんな

その人はあやしい人じゃないんです! プロデューサーさんの、部下の方でっ

私が名刺を取り出そうとするよりも早く、今までずっと黙り込んでいたあんなが声を上げた。

一ノ瀬透子

プロデューサーさんの……?

プロデューサーの名前に反応して、透子は少しだけ表情を和らげる。

この機を逃す術はない。

私はすかさず名刺を差し出した。

月城虎子

申し遅れました。私、音楽事務所でマネージャーをしている月城虎子です

一ノ瀬透子

あ、どうも。……確かに、この事務所の名前はプロデューサーさんの……

月城虎子

あなたにも

陸にも、同じように名刺を手渡す。

嵯峨山陸

サンキュ

竜胆あんな

あの! 虎子さんは正義感が強い人で、ちょっと猪突猛進気味なところもあるんですけど、悪い人じゃないんです!

あんなの必死の弁明に、陸と透子は顔を見合わせて苦笑した。

嵯峨山陸

まあ、プロデューサーの部下って、個性強そうだもんな

一ノ瀬透子

確かに……

引っかかる表現はあったものの、どうやら、私の身分は信じてもらえたらしい。

月城虎子

あなたたちは二人とも、プロデューサーと仕事をしていたことがあるのよね?

嵯峨山陸

俺は、MySTARの嵯峨山陸だ。今はまあ、いろいろあってモデル中心で活動してるが、プロデューサーにはいろいろと世話になってた

一ノ瀬透子

EARTH・RAYの……いえ、一ノ瀬透子です。私も、昔はよくプロデューサーさんのお世話になってました。事務所からアイドル部門がなくなってしまったので、今は表立った活動はほとんどなく、ラジオのパーソナリティのお仕事がメインですけど……

アイドリズム総選挙で活躍していた二人でも、アイドルらしい活動がほとんどできていないとは。

本当に、私が日本にいた頃とは情勢が変わってしまったのだと、改めて実感する。

一ノ瀬透子

……部下っていうなら、プロデューサーさんが、今どこで何をしているのか知ってますか?

嵯峨山陸

それは俺も気になってた。なんか、変な写真はたまに送られてくるんだけどさ

一ノ瀬透子

こっちの質問には、全然答えてくれないんですよね……

そう言って見せられたスマートフォンの画面には、里見先輩のときと同じような写真が映し出されていた。

馬に乗って大草原を駆けていたり、民族衣装を身にまとった人たちと炎を囲んで踊っていたりと、一見遊んでいるようにしか感じられないものばかりだが、これには海よりも深く、山よりも高い理由がある……はずだ。

月城虎子

プロデューサーは、アイドリズムの復活を目指して世界中を駆け回っている……と、私は信じているわ

一ノ瀬透子

アイドリズムの復活……プロデューサーさんはまだ、諦めてないんですね

嵯峨山陸

プロデューサーらしいな

我ながら説得力のない言い様だと思っていたのだが、二人は納得した様子でうんうんと頷いている。

それだけプロデューサーが、信頼されているということなのだろうか。

竜胆あんな

あのー……

話がひと段落するタイミングを見計らっていたのか。

今まで話に加わることなく待っていたらしいあんなが、おそるおそるといった調子で声をかけてきた。

月城虎子

ああ、ごめんなさい。あなたの紹介がまだだったわね

竜胆あんな

いえ、紹介とかは別にいいんですけど……!

焦ったように首を振るあんなに、透子たちも困惑した様子で顔を見合わせている。

嵯峨山陸

今さら紹介されなくても……なあ?

一ノ瀬透子

まだ業界にいたとは知らなかったけど……ねえ?

そういえば、あんなは先ほど、私よりも早く二人の名を呼んでいた。

それに、プロデューサーと係わりがあることを知っているかのような発言もしていなかっただろうか。

月城虎子

もしかして、知り合いなの?

竜胆あんな

そういうわけじゃ! ……あるんですけど……

月城虎子

……どっちなの?

あんなの言葉の意味するところがわからず、首を傾げる。

すると、あんなはますます焦ったように辺りを見回しはじめた。

竜胆あんな

あー! あれ! 誰か、こっちに走ってきますよ?

指で示された方に目を向けると、こちらへ走ってくる局のスタッフらしき男性の姿があった。

スタッフ

嵯峨山さん!

嵯峨山陸

ん? あいつは確か……

竜胆あんな

知り合いの人ですか?

嵯峨山陸

ああ。さっきまで出演してたバラエティ番組の、照明のバイトだ

そんな話をしているうちに、スタッフが陸の前までやってきた。

嵯峨山陸

どうした? なんかあったのか?

スタッフ

それが、照明のスイッチが一部効かなくなっちゃったんですけど、エンジニアさんがつかまんなくて。嵯峨山さんならなんとかしてくれるはずだから捜してこいって、先輩が……

嵯峨山陸

誰だ、そんな勝手なこと言ってやがる先輩は。ったく、しゃーねえな。さっきのスタジオか?

スタッフ

はい!

月城虎子

ちょっと待って。あなたが行くの? マシントラブルの対処なんて、あなたの仕事じゃないでしょう?

さも当然と言わんばかりに進んでいく話に、ストップをかける。

陸は、焦れている様子のスタッフを先に行かせてから、私に向き直った。

嵯峨山陸

もともと機械いじりが好きで、自分たちのライブで音響の手伝いをしてるうちに、話がいろんなところに広がっちまってさ。こうして声をかけられるのは、珍しくないんだよ。ま、持ちつ持たれつってヤツだな

月城虎子

でも……

嵯峨山陸

それに、面倒見るのは嫌いじゃない

最後に得意げに笑って、陸はスタッフの後を追いかけていってしまった。

竜胆あんな

行っちゃいましたね

月城虎子

そうね……

一ノ瀬透子

はあ~~~~っ

月城虎子

ん?

陸がいなくなった途端、ひとり大きなため息を吐いた透子に、私とあんなは顔を見合わせて互いに首を傾げる。

月城虎子

どうしたの? やっぱり、陸と何かあったとか?

一ノ瀬透子

いえ、あったというか、これからあるというか……

月城虎子

煮え切らないわね。私でよければ、話を聞くわよ?

一ノ瀬透子

その…………ちょっと相談に乗ってもらってもいいですか?

不安そうに尋ねる声に、私は力強く頷き返した。

人目のあるところでは話しづらいという透子に連れられ、私たちは彼女の楽屋へと足を踏み入れた。

一ノ瀬透子

どうぞ、座ってください

促されるまま、あんなと並んでソファへ腰を下ろす。

透子は自分の手荷物から冊子を取り出し、テーブルを挟んで向かい側に座った。

一ノ瀬透子

これが、今度出演するドラマの台本なんですが……

そう言ってテーブルの上に置かれた冊子には、『恋愛オムニバスドラマシリーズ・恋する金曜日』と大きく書かれている。

竜胆あんな

あ、私これ知ってます。スタッフさんも俳優さんも若手の人ばっかりで、毎回意外な登場人物が出てくるのが面白いって、話題になってるドラマですよね

月城虎子

へえ……

説明を聞きながら台本を眺めていた私は、一ヶ所だけ付箋が貼られていることに気づいた。

竜胆あんな

それと、毎回サプライズ演出っていうのがあって。主演の二人にはそれぞれ秘密の指令が渡されていて、サプライズ演出をしかけられた方がアドリブで対応しないといけないんです。サプライズ演出の場面を視聴者に当てられたら、その俳優さんは私物を視聴者プレゼントするって決まりになってるんですよ

月城虎子

なるほど。視聴者参加型の側面も持っているというわけね

竜胆あんな

ヒロインってことは、透子ちゃんもサプライズ演出するんですよね?

一ノ瀬透子

うっ……

あんなの無邪気な問いに、透子は声をつまらせて俯いてしまった。

竜胆あんな

あわわっ、と、透子ちゃん? ごめんなさい、聞いちゃいけないことだった?

一ノ瀬透子

違うの……実は、その……

何かを言おうとしている透子の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。

その目線は、台本からわずかにはみ出した付箋へと向けられていた。

月城虎子

そのサプライズ演出で、何かあるのかしら?

一ノ瀬透子

なっ!? なんでわかったんですか!?

月城虎子

あなたの態度を見ていればわかるわ。それで? 何が問題なの?

率直に切り込むと、透子は躊躇いながらも口を開く。

一ノ瀬透子

ここだけの話にしておいてほしいんですが……私のサプライズ演出は、クライマックスシーンで私から嵯峨山くんに……き、キスをしなければならなくてですね……

最後の方は消え入りそうなほど小さな声だったが、かろうじて聞き取ることができた。

竜胆あんな

ひゃああああ、キス!

一ノ瀬透子

き、キスと言っても、軽くよ! 掠めるだけよ!

あんなも、透子も、顔を真っ赤に染め、今にも頭から湯気が出そうな様相だ。

一ノ瀬透子

でも私、想像するだけでパニックになりそうで……!

確かに、説明するだけでこの調子では演技どころではないだろう。

演技指導は専門外だが、この場合重要なのは、透子がキスに惑わされることなく、自分の演技に集中できるようになることだ。

短期間での意識改革は難しい。

ならば、身体に叩き込むしかない。

月城虎子

慣れるしかないわね

一ノ瀬透子

慣れ……ですか?

月城虎子

そう。何度も反復練習を重ねて、恥ずかしいと思っていようがなんだろうが、身体が自然と動くようにするのよ

一ノ瀬透子

な、なるほど……理屈はわかるような、わからないような……

月城虎子

とにかく、一度練習してみましょう。あんな、手伝ってちょうだい

ソファから立ち上がり、あんなを促す。

竜胆あんな

でも私、透子ちゃんより背が低いし……お相手役は虎子さんがやった方がいいんじゃないですかね?

月城虎子

それもそうね。じゃあ、あんなは監督役として、合図出しと演技の確認をお願い

竜胆あんな

ぴぴ……じゃなくて! りょうかいしました~!

一ノ瀬透子

え、ちょっと待ってください。私、まだやるなんて……

話についていけないといった様子で声を上げる透子に、私はぴしゃりと言い放った。

月城虎子

何を情けない声出してるの! あなたはヒロイン役の女優なのよ、しゃんとなさい!

一ノ瀬透子

は、はい! 悦んで!

月城虎子

……居酒屋みたいな返事ね

一ノ瀬透子

いえ、別に……その……厳しく言われて嬉しいと思うなんて、私、そんな女じゃないんです……!

月城虎子

よくわからないけど、普通そうじゃない?

一ノ瀬透子

ああっ! ななな、なんでもないです! 練習! 練習しましょう。ね!

透子は再び顔を上気させながらも、やる気は出たようで、自ら台本を開き、積極的に流れを説明してくれた。

竜胆あんな

ではいきますよー! よーい、アクション!

どこから見つけてきたのか、あんながカチンコを鳴らす。

私は借り受けた台本を片手に、透子を壁へと追いつめた。

月城虎子

それ、本気で言ってるのか?

演技のプロではないので、多少のぎこちなさは見逃してもらうとして。
台詞と動きだけは間違えないよう注意を払う。

一ノ瀬透子

ええ、本気よ。私は、あなたのことが……

よし、ここだ。

透子の台詞をさえぎるように、顔の横にこぶしを叩きつける。

一ノ瀬透子

ひゃうんっ!

我ながらいいタイミングだと思ったのだが、透子は甲高い声を上げて蹲ってしまった。

竜胆あんな

カーット! 透子ちゃん、大丈夫ですか?

月城虎子

壁を強く叩きすぎたかしら? 顔からなるべく離したつもりだったんだけど……

一ノ瀬透子

いえ、むしろもっと強くしてほしいくらいで……って、私は何を言ってるの!

月城虎子

……本当に大丈夫?

一ノ瀬透子

大丈夫です! 髪が微妙に引っ張られたのが気持ちよく……じゃなくて、びっくりしてしまって!

竜胆あんな

透子ちゃん髪長いですもんね

月城虎子

ごめんなさい。次は髪にも当たらないように気をつけるわ

一ノ瀬透子

私こそ、すみません。次は、次こそはしっかりやります

月城虎子

あまり気負いすぎたら、できるものもできないわ。落ち着いてね

キスシーンに対して羞恥に駆られているだけにしては、どうにも様子がおかしい気もするが、透子がもう一度と急かすので、私たちはテイク2に入った。

しかし、その後も同じようなミスが続き……。

キスシーンまでたどり着いたときにはテイク20を超え、私は台本なしでも演技ができるようになっていた。

一ノ瀬透子

これで、私が本気であなたのことを好きだって、少しは信じてくれた?

吐息が、唇を掠める。

少しでも動いたら触れてしまいそうなほど近くに、透子の唇があった。

これは、さすがに恥ずかしい。

はにかむ透子に負けず劣らず、自分の頬も赤く染まっていることだろう。

そう感じているのに、なぜか目が離せない。

竜胆あんな

カーット!

あんなの声が響いた瞬間、私はハッとして透子から離れた。

さすがアイドルと言うべきか。

何度もリテイクを繰り返した後だというのに、すっかり演技に引き込まれてしまった。

竜胆あんな

すっごくいい感じでしたよー! 私、見ててドキドキしちゃいました~

あんなは台本を抱き締め、興奮した様子で身体をくねらせている。

月城虎子

そうね。今のはよかったんじゃない?

一ノ瀬透子

ありがとうございます。ちょっと自信がついてきました。本番で完璧にこなせるよう、当日までもっと練習してきます!

どうやら、結果は上々のようだ。

この調子ならば、きっと大丈夫だろう。

月城虎子

そうだ。もしよかったら撮影当日、見学に行ってもいいかしら? 上には、私から許可を得ておくから

竜胆あんな

あ、私も行きたいです!

月城虎子

当然、あなたも行くのよ。監督役をしながら台本も読み込んでいたみたいだし、本番を生で見るのはいい経験になるはずだわ

純粋に透子の演技が気になるというのも、もちろんあるが。

マネージャーとして、あんなのためにもなるだろうという判断だ。

一ノ瀬透子

恥ずかしい……という気持ちもありますが、虎子さんが来てくださるなら心強いです。ぜひ、いらしてください

竜胆あんな

やったー! 当日、楽しみにしてます!

月城虎子

応援しているわ

一ノ瀬透子

はい!

私たちは撮影当日の再会を約束し、楽屋を後にした。

そして迎えた撮影当日。

私はあんなと共に、『恋する金曜日』の撮影スタジオを訪れた。

月城虎子

おはようございます

竜胆あんな

おはようございます!

まずは挨拶まわりをしようと辺りを見渡すと、スタジオ内にいるスタッフたちの動きが妙に慌ただしいことに気づいた。

撮影の準備中にしては、様子がおかしい。

竜胆あんな

どうかしたんでしょうか?

嵯峨山陸

あんたら、来てたのか

私たちの姿に気づいた陸が、スタジオの奥から足早に歩み寄ってきた。

その表情は、やはりどこか険しい。

月城虎子

何かトラブルでもあったの?

嵯峨山陸

それが、透子がインフルエンザにかかって、ここに来る途中で倒れちまったらしくてな

竜胆あんな

えっ、透子ちゃんが!?

月城虎子

倒れたって、容態は?

思わず陸に詰め寄ると、宥めるように肩を叩かれた。

嵯峨山陸

大丈夫だ。今、病院で処置を受けてて、問題はないらしい。でも、放送日が迫ってるから撮影は延期できなくてな。急いで別の女優を探してるんだ

竜胆あんな

そんな……透子ちゃん、本番で完璧にできるようにって、一生懸命練習してたのに……

きっと、透子は今頃病院で、悔しい思いを抱えていることだろう。

短い時間だったけれど共に練習を重ねたからか、透子の努力が報われない結果に終わるのは、我がことのように残念でならない。

それは、陸も同じ気持ちのようだった。

嵯峨山陸

俺だって、そんな急に宛がわれた女優となんて、ほんとはやりたくねえよ……。あれからも、時間があれば一緒に練習してって……そういえば、あんな。お前、透子の練習に付き合ってたんだよな?

透子から聞いたのだろう。

思い出したというように、陸はあんなを見つめた。

竜胆あんな

う、うん。一回だけ、ですけど

あんなの答えを聞いた陸の目が輝く。

ニヤリと口角を上がり、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

嵯峨山陸

あんな、透子の代わりにヒロイン役をやってみないか?

竜胆あんな

えっ!?

月城虎子

そんなの無理に決まっているでしょう

思いつきにしたって、性質が悪すぎる。

確かに、ゆくゆくはドラマにも出演してほしい。

しかしそれは、段階を踏んで、ステップアップを図ってからの話だ。

竜胆あんな

……私は……

嵯峨山陸

あんなは、どうしたい?

竜胆あんな

私は……困ってるみたいだし、私でいいなら、やってもいいかなって……

にへら、と。
あんなはいつもの笑みを浮かべて、そう答えた。

月城虎子

いいかなって、あなたね……!

竜胆あんな

私じゃ、とても透子ちゃんの代わりにはならないかもしれないけど。でも……他の誰かに任せちゃうよりは、私がやりたいなあって……ダメですか?

嵯峨山陸

ダメじゃねえよ。ありがとな! 監督に伝えてくる!

あんなの頭をひと撫でして、陸は呼び止める間もなく走っていってしまった。

月城虎子

ちょっと、陸っ……もう……本当に大丈夫なの?

竜胆あんな

私、こう見えても暗記は得意なんですよ? 台詞は透子ちゃんと一緒に練習したときに覚えましたし、頑張ればなんとかなりますって

不安を拭いきれない私に対し、あんなは星の光を宿す瞳をきらきらと輝かせて笑ってみせる。

普段は弱気なくせに、こういうときばかり楽天的になのはなぜなのか。

甚だ疑問だ。

けれど、だからこそ、この子ならばと思ってしまうのかもしれない。

月城虎子

はあ……台詞はいいとして、例のキスシーンもあるのよ?

竜胆あんな

あっ……どどどどど、どうしよう! 忘れてた~っ!

自慢の記憶力は、そこには発揮されなかったらしい。

頭を抱えてうろたえはじめたあんなの姿に、再びため息が漏れる。

月城虎子

頑張ればなんとかなるんでしょう。頑張りなさい

竜胆あんな

ううう……私、ファーストキスもまだなのに~~~っ

監督の快い返事を携えた陸が戻ってくるまで、あんなはその場に座り込んでいたのだった。

不安の中はじまったドラマ撮影だったが、陸のリードもあり、想像していたよりも順調に進んでいった。

そして、ついにクライマックスシーン。

ようやく自分の恋心を自覚したヒロインが主人公に想いを伝えるも、ずっと拒否され続けてきた主人公は、ヒロインの言葉を受け入れることができない。
ヒロインは主人公に信じてもらうため、自らキスをする。

ここでのキスは、陸には知らされていないサプライズ演出のため、今度はあんながリードしていかなければならない。

嵯峨山陸

俺が何度好きだって言っても本気にしなかったくせに。今さら、俺にお前のその言葉を信じろっていうのかよ

竜胆あんな

ごめんなさい。私、ずっと酷いことしてきた……好きって気持ちを否定されるのは、こんなにも苦しいことだったんだね……

俯いてしまった陸の肩に、あんなが手をかける。

陸がハッとしたように顔を上げたのは、驚きからか、それとも演技か。

台本の流れとは違うことから、陸もサプライズ演出だと気づいているはずだ。

竜胆あんな

でも、やっと気づいたの。私は、あなたのことが好きなんだって。だから、今度は私があなたに信じてもらえるように頑張る

嵯峨山陸

頑張るって……どうするつもりだよ

弱々しい声で吐き捨てられた言葉に、あんなは目を伏せた。

肩に手をかけたまま背伸びをして、そして――。

~ つづく ~

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