8.そう言われても、すぐには決めかねる問題で。
8.そう言われても、すぐには決めかねる問題で。
紅鶴(べにづる)の前に、信繁(のぶしげ)と信晴(のぶはる)が並んで座している。おだやかな信繁の笑みと、イタズラの成功を喜ぶガキ大将のような顔をしている信晴を見比べて、紅鶴はそっと息を吐いた。
兄弟だと言われてみれば、目元や鼻筋が似ていると思うけれど、他人の空似という言葉もあるし、わからなくて当然よね
紅鶴は心の中で、気づかなかった自分をなぐさめた。
それに、まさか領主の息子が使者として来るなんて、思わないじゃない
紅鶴が不機嫌に信晴を見ると、彼はますます楽しそうに口角(こうかく)を上げた。
まず、俺が使者として来た経緯を聞くか? 紅鶴
それよりも、姫がどこまで存じておられるのかを、聞いたほうがいいだろう
なるほど。それもそうだな
私が聞いているのは、信繁様との婚姻が決まったということです。それは信晴……様がいらした日に、お父様から告げられました。瀬至(せい)のことも、伺っております
兄弟は同時にうなずき、信晴が口を開いた。
俺を伊香(いか)信晴と知って、戸惑っているのだろうが、いままでどおり、呼び捨てでかまわぬ。俺も紅鶴に、これまで同様の態度で接するつもりだ。……問題はあるか
そうしてもらえると、助かるわ。なんだか調子が狂うもの
紅鶴がホッとすると、信晴は得意そうに兄を見た。
手紙に記した、紅鶴の本性が見られるぞ。兄上
本性ってなによ。というか、どうして信晴は私が植村(うえむら)の姫だとわかったの
はじめから、名前を知っていたのでな。里のものらは、領主の娘を“姫様”としか呼んでおらぬから、子どものうちは紅鶴の名を聞いても、そうとはわからぬのだろうが
女の名なんて、世間に広まるものじゃないと思っていたわ
姫の名は、帝都まで届いているかはわかりませんが、近隣諸国には広まっておりますよ
それは、どうしてですの。信繁様
すすんで武芸や馬術に取り組み、里をまわって民を見る姫など、そうはおられませんからね
ウワサの実体を確かめるために、俺が使者に立ったのだ。兄上の妻となる女が、他所の姫とは異なる変わりものと聞けば、気にもなろう
変わりもので、悪かったわね
悪いとは言っておらぬ。そなたが言われるとおりの女なら、たのもしいと思ったのだ
たのもしい?
有事の際には、行儀見習いや手習いなどは、なんの役にも立たぬからな
信晴とはじめて会ったとき、そんなことを言われたなと、紅鶴は思い出した。
直接に紅鶴を知った俺は、話に聞く以上の姫だと、兄上に文を送った。すると兄上が、それならば一度、こちらへ来てみようと申された
ふたりともがこちらへ来るなんて、反対はされなかったの?
ほかの地なら、そう言われていたでしょう。ですが伊香と植村は古くから交易などで、関わりがありますから。それに互いの領主が、友でもある。紅鶴姫は、その話を父君から聞いてはおられませんか
そういえば、お父様は遠くに親友がいると言っていたわ。文が届くと、とてもうれしそうになさって……。お母様から、妬けるほど仲がいい相手だと教えていただいたのだけれど。それが、伊香の領主様だったなんて
我が父、伊香重信(しげのぶ)と植村国定(くにさだ)様は、幼年のころよりの付き合いで、お互いに公式でない場合は“シゲ”と“サダ”で呼びあっているのですよ
だから俺たち両方が、ここに来ても心配はしない。それよりも、ひとり娘を手放すのは辛いんじゃないかと、父上は国定様を案じておられるのだ。そなたは覚えておらぬだろうが、幼児のそなたを連れて伊香へ外交に来られた折、それはそれは大切に扱っておられたそうだからな
ですから人質交換のようなことをしなくとも、こちらは男児がふたりいて、どちらも領主となれるよう教育をしているから、好きなほうを息子として迎えてほしいと、我が父は申しておるのです
紅鶴は目をしばたたいた。
好きなほうを息子として……って。私は信繁様の妻となるのでしょう? つまり、お父様が信繁様と信晴のどちらを息子と決めるかで、私がこの地に留まるか、伊香に行くかが決まると理解してよろしいのですか
紅鶴は信繁に問うたが、答えたのは信晴だった。
いいや。紅鶴はこのまま、植村に留まるんだ。伊香に来たいというのなら、かまわんがな
どういうこと? お父様が信繁様を養子に迎えると、お決めになられたの
姫
信繁がスッと前へ出る。信晴もそれに続いた。
姫が、どちらを夫にするのかを、選ぶのです
えっ
紅鶴と過ごしているうちに、兄上に差し出すには、もったいなくなったんだ。それを文に書いて送ったら、兄上もこちらへ参ることとなった。領主同士の話が平行線ならば、姫に決めてもらおうと、父上が申されてな
差し出すって……。私は信晴のものじゃないわ
信晴。失礼だぞ
そうは言っても、兄上。俺はもう、紅鶴を我がもののように感じておるのだ
紅鶴は唖然とした。
紅鶴のような女は、そういない
信晴が雄々しくも人なつこい笑みを浮かべて、まぶしそうに紅鶴を見た。
そなたの他に、のびやかに共に過ごせる姫が、いるとは思えぬ。兄上には申し訳ないが、俺はそなたが欲しくなった。そなたも、俺となら気楽に過ごせると思うが、どうだ
それでは、この兄とでは姫は窮屈な生活を強いられると、そう考えておるのか。信晴
そういうつもりでは、ございませぬ。しかし、紅鶴。俺とならば、気楽な会話もできよう
え、ええと
紅鶴姫。もしも窮屈であるのなら、信晴に対するように、某(それがし)にも接してくださってかまわぬのですよ
いえ、あの、その……そちらのお父上様がそのように申されておられても、お父様がどうお考えになられているのかを、その……
ああ。それなら心配はいらぬぞ、紅鶴
ええ。姫が気に病まれなくとも、承諾を得ております。姫の選ぶ道で、決定をすると。でなくば、国定様も我等が父も、互いに譲り合うて、埒があきませぬからな
仲が良すぎるというのも、困りものだ。なあ、兄上
まことに、そうだな。信晴
いかにも武人らしい精悍な信晴の顔には、兄に対する敬愛が滲み、典雅でおだやかな信繁のほほえみには、弟に対する慈愛の念が浮かんでいる。
ほんとうに、仲の良い兄弟なのね
いっそのこと、我等ともども紅鶴の夫となってもかまわぬが
それでは、姫が辛いだろう。なんてことを言い出すのだ
冗談には聞こえなくて、紅鶴は総毛立った。
ほら。姫が怯えておるではないか。……姫、そのような無体な要求はいたしませぬよ
どちらか選べというのも、なかなかに無体だと思うが。まあ、俺としても兄上といえど、紅鶴を共有などできかねる。どうだ、紅鶴。俺と夫婦(めおと)にならんか
紅鶴姫。すぐには決めかねるでしょうから、どうぞごゆるりと、ご自身の心に問うて、答えを導き出してくだされ。某も信晴も、いましばらくは滞在させていただきますゆえ、我等が言動をつぶさに観察し、お決めいただきたい
整った顔立ちの殿方ふたりに、熱い視線で見つめられ、紅鶴はわずかに気圧されのけぞりながらも、なんとか首を縦に振った。
まさか、こんなことになるなんて……
国交の絆を深めるための婚姻と、覚悟は決めていたのだが、こんな流れになろうとは、予想できようはずもなかった。
(つづく)