9.信繁エンディング:乙女のときめきは、おてんば姫でもあるもので。

紅鶴(べにづる)はゆるく手綱をにぎり、傍を行く信繁(のぶしげ)を目で追った。彼はすぐに紅鶴の視線に気づき、笑顔を向ける。

ずいぶんと謙遜なされておられましたが、人馬一体(じんばいったい)のようですね。見事な馬術だ

信繁様こそ、すばらしい馬術です。ちっとも馬に疲れが見えませんもの

紅鶴は馬首をめぐらせ、後方を見た。遠くに荷駄(にだ)や、供回りのものらの姿がある。

すこし足を急がせてしまったかしら

姫の駿馬(しゅんめ)ほど、すばらしい馬を彼等は持っていませんから

この馬はまだ若いから、遠出に浮かれているのかもしれません

紅鶴は馬の首を撫でた。

もしかしたら、私のうわついた気分を察して、馬の足が早くなってしまったのかも

姫。おつかれではございませんか。彼等が追いつくまで、そこの木陰でひと休みいたしましょう

ええ、そういたしましょう。でも、はやく伊香(いか)の国を見てみとうございます

なあに、もうすぐですよ。それほど急がれなくとも、今後はずっと住まう場所なのです。ゆったりと道中(どうちゅう)を楽しまれれば、よいではありませんか

それもそうですわね


ふたりは馬を街道の脇に寄せた。信繁が先に下り、紅鶴に手を差し伸べる。紅鶴は、はにかみながら信繁の手を取った。

どうぞ


信繁が手ぬぐいを取り出し、木の根元へ敷く。紅鶴はそこに腰かけ、腕を伸ばした。

ああ、いい天気

ほんとうに。旅はこのまま、つつがなく終わりそうですね

伊香までは、あとどのくらいで到着するのです?

この先の川を越えれば、もう伊香です。そこから我が屋敷までは、2日ほどですね

いよいよ、信繁様のお父上様と、お会いできるのですね。お父様の親友とは、どのような方なのかしら

向こうも、きっと楽しみに待っているでしょう。幼子のころの姫を、見知っているのですからね。某(それがし)も、姫を我が妻として、みなに紹介するのが楽しみでなりませぬ


紅鶴の頬が赤くなる。それに、信繁はやわらかく目を細めた。

驚きました

なににです?

様々なことに

様々な、こと

某を選んでくださった理由を、そろそろお聞かせ願えませぬか


紅鶴は逡巡(しゅんじゅん)しつつ、信繁の楽しげな瞳を見つめた。

それは……当初から、私は信繁様の妻になると、聞かされておりましたから


頬を染め、歯切れ悪く答えた紅鶴に、信繁はなにもかもわかっているというふうに、唇をほころばせた。

それでは、伊香の国に来てくださると、決めた理由は?


今度はきっぱりと、紅鶴は答えた。

信繁様は植村(うえむら)の領主よりも、伊香の領主であるほうが、お似合いだからです。失礼ながら、信晴では伊香の特産品を、うまく扱えるとは思えませんもの

あはは、なるほど。なんとも明快な答えですね


実にゆかいそうに、信繁が額に手を当てる。

それに、やはり親しき仲にも道理は必要です。そちらが御子を送られるのに、私が参らないのは不公平ではありませんか


信繁の手が、紅鶴の手の上に重ねられる。

あなたが、我が妻となる方でよかった


心底の声音に、紅鶴の胸が甘美に揺れる。

……信繁様

ああ、姫。いえ、紅鶴とお呼びしても、よろしいですか

もちろんです

では、某……いいえ。俺のことも、信繁と呼んでください

信繁


信繁がニッコリとし、紅鶴もほほえむ。

彼等がくるまで休もうと言ったのは俺ですが、もっと紅鶴とふたりきりで、道中を楽しみたい


立ち上がった信繁の手に引かれ、紅鶴も腰を上げた。

逢引のようだわ

逢引か……。それはいい。それでは、逢引をいたすとしましょう。まずは、この先の町まで

ええ。ぜひに


そのころになって、ようやく供のものらが追いついてきた。

俺と紅鶴は、逢引をすることに決めた。よって、先に行くぞ

信繁に言い渡され、供のものらは不得要領(ふとくようりょう)な顔となる。

宿はわかっておる。先に行って、姫に町を案内するゆえ、そなたらはのんびりと参るがよい。――さあ、紅鶴

ええ


ふたりは楽しげに馬にまたがり、走りだした。背後から名を呼ばれ、手を振りながら笑いあう。

まずは宿に馬を預けましょう。そこから町のあちこちを、散策すればいい。それとも、町の周囲の野山を馬で駆けましょうか

どちらも楽しそうですけれど、馬は明日も長道中になるのですから、休ませてあげとうございます

なるほど、そうですね。……ところで、紅鶴

はい?

俺にも、信晴に向けているような、気安い言葉づかいをしては、いただけませぬか

どうしてですの?

なにやら、あちらとのほうが、気心が知れているように聞こえるのです。バカな男の悋気(りんき)と、お笑いになられるでしょうが

いいえ


クスクスと紅鶴は息を震わせる。

あなたを夫にと選んだのは、この私ですのに、そんなことを気になさるのですね

見損ないましたか

いいえ、いいえ


なおも紅鶴は笑いながら、馬を走らせる。髪を撫でる風が心地いい。

それでは先に、信繁様が口調をお改めくださいませ

俺のこれは、くせのようなものです

それでは、私はこのままでいさせていただかなくては

なぜですか

植村の姫は礼儀も知らず、夫を敬うこともできぬのかと、眉をひそめられては困りますもの

なるほど

それに……


町の入り口が見えて、紅鶴は馬の足をゆるめた。

そのような瑣末(さまつ)なことをお気になさらずとも、私は……


いいよどんだ紅鶴は、うつむいた。その耳が赤いのを見取り、信繁は馬を下りる。

紅鶴

手を差し伸べられ、紅鶴は馬を下りた。

俺のかわいい人。……これから末永く、共に幸せに暮らそう

――はい


ちいさく答えた紅鶴の声は、地面に落ちてしまう前に、信繁の唇に受け止められた。

(信繁エンディング・終
信晴エンディングへつづく)

Nove by Kei Mito
水戸 けい

Illustration by Logi
ロ ジ

9.信繁エンディング:乙女のときめきは、おてんば姫でもあるもので。

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