6.どうにも調子が狂うのは、仕方のないことで。
6.どうにも調子が狂うのは、仕方のないことで。
こっそりと屋敷を抜け出した紅鶴(べにづる)は、子どもたちとは遊ばずに、ひとり山すその木の上に登って、里の景色にぼんやりと視線を向けていた。
今日は、子どもらとは遊ばぬのか
声がかかり、見下ろすと根元に信晴(のぶはる)がいた。
そうよ
短く答えて、紅鶴は里に眼を戻した。すると信晴がスルスルと登ってきた。紅鶴より一段低い木の枝に落ち着いた信晴は、手びさしをして景色をながめる。
なるほど。よい場所だな
……ええ
なにか、あったのか
あったけど、言えるようなものじゃないわ
紅鶴はそっと、ため息をついた。信晴はもの言いたげに紅鶴を見るが、なにも問わずに景色に視線を戻した。
聞きたいことがあるんだけど
なんだ
紅鶴は太い幹ごしにある、信晴の顔を見た。どこからどう見ても武家の男らしい、精悍な顔つきをしている。
信繁(のぶしげ)様とは、まったく違うわ。でも、なんだろう……すこし、似ている気がする。郷里がおなじだから、雰囲気が似通うのかしら
どうした。そんなにじっと見て。……惚れたか
ニヤリとした信晴に、紅鶴は赤くなった。
なんだ。図星か
そんなわけ、ないでしょう!
紅鶴が頬を膨らませれば、信晴はかろやかな笑い声を立てた。
信晴になら緊張もしないで、こんなふうに口を利けるのに、どうして信繁様にはできなかったのかしら
紅鶴は、信繁の優美な所作とほほえみ、ふわりと香るやわらかな気配を思い出し、胸元に手を乗せた。信繁を思うと、このあたりがどうも、ムズムズとする。
なんだ。肺病か
違うわよ
なにかを台無しにされた気分で、紅鶴は答えた。
で。質問は、なんだ
ああ、ええと。養子となる予定の方が到着するって、言っていたわよね
言ったな
予定って、どういうこと? 養子になるから、来たのではないの
紅鶴は信繁と別れて自室に入ってから、信晴の言葉と父の言葉を重ね合わせて考えてみたが、よくわからなかった。
私と信繁様が結婚をすると決まっているのだから、あの方がこちらに参られたということは、私はこの地に留まれるということよね。けれどお父様は、それを明言なさらなかった。外交上、こちらから向こうに送る人間が必要だと、考えていらっしゃるから?
そのことか。それは、しばらく滞在してから決めることになろう
信晴の答えに、紅鶴は片目をすがめた。
滞在して、やはり伊香(いか)の国がいいと思ったら、帰るというの?
さあ、どうだろうな
信晴がニヤリとする。
それでは、しばらく住んでみたけれど、居心地が悪いから戻ると言うようなものじゃない。なんて失礼な。……でも、こちらは対等に差し出せる人間が私しかいないから、仕方のないことなのかしら
なにを、難しい顔をしておるのだ
よくわからないからよ
なにがだ
あなたの国の意図が、よ
なるほど、そうだな。そなたからすれば、わけがわからぬだろう
他言してはいけない、なにかがあるの?
なんだ。俺たちを疑うておるのか。心配いらぬ。伊香は植村(うえむら)と友好を結ぶつもりだ。ただ、伊香の息子は双方ともに仲が良くてな。どちらも相手に家督をゆずろうとしておる
家督を、互いに? 争うのではなく、ゆずるだなんて
不思議だろう。それほど兄弟は、それぞれの力量を評価しておるのだ。そんな折、伊香と植村が手を組み、瀬至(せい)の動向を見張らねばならぬ事態となった。剣呑(けんのん)な事案に対して、こう言うのもなんだが、伊香にとってはありがたい問題だった。なぜだか、わかるか
植村には娘がひとり。どちらかと縁組をさせれば、兄弟のどちらもが、国は違うけれども領主になれる
そうだ
褒めるように、信晴が頬を持ち上げる。紅鶴の胸に、誇らしさが生まれた。
だが、次はどちらが伊香を継ぎ、植村を継ぐかが問題となった
対等な取引をするのなら、植村の娘を伊香に送るべきよね。人質交換、と言っては聞こえが悪いけれど、それが当然だわ。つまり、植村の娘と結婚をしないほうが、伊香の領主となる
ああ。だが双方の領主は、深い絆で結ばれておる。そのような取引めいたことをせずとも、信頼は揺るがぬ。ひとり娘を手放すのは辛いだろうから、無用な気遣いは不要と、伊香の領主は申しておるのだが、そちらの領主は、それでは道理が立たぬとおっしゃり、話は平行線をたどっておるのだ
それでお父様は、どちらが養子にくるかは、決まっていないと言ったのね。私の想像とは逆だったけれど、おおむね間違ってはいなかったんだわ
話し合いに決着がついていないまま、伊香は息子をこちらに送った。だから、必ずしも養子になるから来たわけではない、ということ?
まあ、そんなところだ
仲が良すぎるのも、問題ね。すっきりと物事が決まらないんだもの
そうだな。だが、相手を尊重しあうというのは、大切なことだ
ええ。それは、わかるけれど……
そのために、ややこしいことになっているなんて。当事者からすれば、迷惑この上ないわ。ここに残れるのか、見知らぬ土地に行くのか定かでなかったら、心の準備というか、覚悟が決めにくいじゃない
紅鶴。峠の団子屋へ行かぬか
なによ、急に
そなたと散歩がしたくなったのだ。ゆるりと歩きながら、この景色や空気を味わいたい
言い終わらぬうちに、信晴は木から下りてしまった。断わる理由もないので、紅鶴も続く。
んっ、しょ……きゃっ
地面に近い所で、足が滑った。ずり落ちかけた紅鶴の腰に、がっしりとした腕が回る。
大丈夫か
え……ええ
背後から抱きすくめられ、紅鶴はドギマギした。広くたくましい信晴の胸を背中に感じる。
軽いな
え
なんでもない
ほんのわずか、信晴の腕に力がこもったかと思うと、離される。
怪我はないか
おかげさまで。ありがとう、ごめんなさい
なに。かまわぬ
気がかりなことがあって、ぼんやりとしていたから、足を滑らせてしまったんだわ
信晴が背を向けて歩きだす。広い彼の背中に、さきほど感じた、たくましい男の気配を思い出し、紅鶴は身震いをした。信繁に手を差し出され、導かれたときとは違う、けれど似通った胸の動悸を覚える。
なにをしておる。行かぬのか
行くわ
振り向いた信晴に答えながら、紅鶴は首をかしげた。
私、どうしちゃったのかしら
行く末を決める大事に出くわして、困惑をしているのだろうと、紅鶴は結論づけた。
(つづく)