5.慣れない扱いをされると、ドキドキしてしまうもので。
5.慣れない扱いをされると、ドキドキしてしまうもので。
華やかな色合いの着物を身につけ、長い髪を丁寧に梳いた紅鶴(べにづる)は、父の横に座している、涼やかな目元の美麗な青年に見とれていた。
こんなにキレイな男の人が、いるなんて……
紅鶴の知っている武家の男はみな、武張(ぶば)ったものばかりだった。里の男衆も、ほとんどが猟師をしているので、植村(うえむら)の男は無骨なものが多い。そういう男ばかりを見てきた紅鶴は、清流に似た空気をまとう相手から、目を離せなかった。
天帝様のいらっしゃる、帝都の中枢の方々のようだわ
見たことはないが、あちらの方々は腕っ節よりも風雅を好むと聞いている。伊香信繁(いかのぶしげ)は、まさにそういう人物のような雰囲気をかもしていた。
顔合わせの紹介は済んだ。あとはふたりで、ゆるりと過ごせ
その言葉にハッとした紅鶴は、腰を上げた父の姿にあわてた。
お待ちください。ふたりでゆるりと、などと言われても、困ります
父がいても、なんにもならぬだろう。なあ、信繁殿
某(それがし)は紅鶴姫にいろいろと、たずねてみたいことがございますので、国定(くにさだ)様が席を外されても、いっこうにかまいませぬ
相手もうろたえるものと思っていた紅鶴は、信じられぬ気持ちで信繁を見た。視線に気づいた信繁が、ニッコリとする。
では、ゆるりとな
父を引きとめる術を思いつけなかった紅鶴は、恨みがましい視線を、閉じた襖に投げつけた。
紅鶴姫
はいっ
ビクリと背筋を跳ね上げ答えた紅鶴に、信繁が目を丸くし、次いでクックと喉を鳴らす。紅鶴の頬に朱が差した。
あ、あの……
そう緊張をなさらないでください。姫に乱暴を働くつもりは、毛頭ございませぬよ
いえ、その……、そのようなことを心配しているわけでは、ございません
初対面の、夫となるべき男と、閉め切った部屋にふたりきりで置かれても、どうしていいのかわからない。
そう言ってしまっていいものかと、紅鶴が悩んでいると、信繁が音も立てずに立ち上がり、庭に面した障子を開いた。
サアッと差し込む光の音が聞こえそうなほど、明るい日差しが室内に入り込む。信繁は笑みを浮かべて、紅鶴に手を差し伸べた。
さあ、姫
吸い込まれるように、紅鶴はその手を取った。導かれるまま立ち上がり、縁側に出る。
美しい庭ですね。散策に行きませぬか
ええ
室内に閉じこもっているよりも気持ちがほぐれると、紅鶴は信繁の申し出をありがたく受けた。
もしかして、それを察してくれたのかしら
まさかそんなと思いつつ、しかし彼ならやりそうだと、紅鶴は思った。信繁は人の機微に敏感な気がする。
ふたりは草履に足を入れ、ゆるゆると広い屋敷の庭を歩いた。
この植村は、四方を山に囲まれているのですね。それが地名の由来と聞きました
ええ……。なんでも大昔に、どこからか流れてきた木工の民が、四方の山々の木を切った後、次代の種を植えて去ったから、植村という地名になったのだとか
なるほど
伊香(いか)の国は、どうして伊香、と?
言い伝えによれば、天帝をこの国に定められた神の好む香木があったから、と聞いております
そちらの国は、香に優れておられますものね。帝都に納められる香木や香り草など、ほとんどが伊香の国の産だとか
よく、ご存知ですね
信繁のやわらかな声音に、紅鶴はほほえんだ。
だから当主の息子が、こんなふうに雅やかなのね
彼が武家には見えない理由を、紅鶴は見つけた。
某が、このような男でがっかりなされておられませんか
どうして、残念がる必要があるのです
武門の男らしくはないでしょう
晴れやかな顔で、信繁は両腕を軽く開いた。風雅な気配をまとってはいるが、着物の下の筋肉が薄いとは感じられない。紅鶴よりも頭ふたつ分はゆうに上背があるが、歩みは澱みなくなめらかで、足音がほとんどしない。紅鶴の足音の方が、大きく聞こえるくらいだ。
たしかに、一見して武家の方とは思えません。ですが、間違いなく武芸に通じておられる方と、お見受けいたします
それは、なぜですか
さきほど、音も立てずに立ち上がり、滑るように障子に近づいておられました。あの挙措(きょそ)は、足腰がよほど頑健でなければ、できませんもの
音を立てて荒々しさを示すより、風が流れるように動くことの難しさを、多くの侍を間近で見てきた紅鶴は知っていた。
なるほど
信繁の瞳が、研ぎ澄まされた刃の先のように光った。たった一瞬の煌きに、紅鶴は息を呑む。
なんて鋭い眼光を、隠し持っているの
見た目で判断してはいけない人物とは、まさに彼のことだと紅鶴は気を引きしめた。
はは。そんなに警戒をなさらないでいただきたい。……怖がらせてしまいましたか
いいえ
紅鶴の声は、気丈に出したつもりが掠れていた。
信繁が好ましそうに目じりをゆるめる。
洞察力がおありなのですね。そういえば、姫は馬術が得意とか。その腕前を、お見せ願いたいものです
それは、どういう意図でおっしゃっているのです?
我が妻となる方が、どれほど勇壮なのかを知りたいのですよ。こちらの様子を書き記した文には、姫は幼いころより武芸に通じており、馬術が得意な、快活で楽しいお方だと書かれておりましたゆえ
まあ
紅鶴は目を丸くした。
信晴(のぶはる)が誰かから、私のことを聞いて書き送ったのね。結婚をしたら、死ぬまで共にいなければいけなくなるんだし、お父様の面目のため姫らしくしなければと思っていたけれど、そんな必要もなさそうだわ
信繁がほほえみながら、そっと紅鶴を引き寄せる。そういえば庭に誘い出される折、その手を取って繋いだままだったと、紅鶴は思い出した。
紅鶴姫
軽く引かれただけなのに、紅鶴の足はトトトと動いて、信繁の胸元に鼻先が触れるほど寄せられた。深い森にいるような、心地いい香りが紅鶴の鼻孔をくすぐる。
あなたについての文を読み、どれほど雄々しい女性だろうと想像をしていましたが
信繁の大きな手のひらが、紅鶴の頬を包んだ。人差し指で耳の後ろを支え撫でられ、紅鶴の心臓は破裂しそうに高鳴った。
こんなに愛らしい方だったとは、おどろきです
あ、あの
紅鶴の満面が朱に染まる。信繁は親しみの込もった笑みを浮かべて、紅鶴の髪を梳くように撫でた。
あなたのことを、もっと深く知りたくなりました。むろん、この国のことも。いろいろと、教えてくださいますね
どこまでもやわらかな信繁の声に包まれた紅鶴は、彼の存在に圧倒されて、声が出せなかった。
姫?
……え、ええ。ぜひに。そちらのことも、お聞かせ願えますか
もちろんですよ。それでは、庭を散策しながら、お互いの話をいたしましょうか
意識がぼうっとするほど満面を熱くしていた紅鶴は、しばらくすると、信繁のさりげない気遣いに満ちた言動に、落ち着きを取り戻した。
ああ、あんなところに
庭を出た先にある練武場(れんぶじょう)のそばに、野花が咲いている。それを手折った信繁は、紅鶴の髪にそれを挿した。
姫への贈り物を、なにも用意していなかったお詫び、というわけではありませんが
ありがとうございます
ふわりとした笑みを交わしあう。
この方が、私の旦那様になられるのね
胸によぎった淡い刺激は、ほんのりと甘かった。
(つづく)