4.決まっていると思っていたものが、不確定だと不安になるもので。
4.決まっていると思っていたものが、不確定だと不安になるもので。
紅鶴は木の上から、子どもたちと魚を追っている信晴をながめていた。
あっという間に、なじんじゃったわね
足をブラブラさせている紅鶴(べにづる)に、信晴(のぶはる)が手を振りながら、網を持ち上げる。そこには銀色に輝く魚の姿があった。
大漁だぞ
彼が川原に向かうのを見て、紅鶴は地面に下りた。
ほら
信晴は楽しそうに、紅鶴に獲れ高を見せると、川から上がった子どもたちの魚篭(びく)に、魚を分け入れる。
活きのいいうちに、家に帰れ
はーい
元気いっぱいの返事を残して走り去る子どもたちを、信晴も紅鶴も手を振って見送った。
いいところだな
しみじみと言う信晴に、紅鶴は疑問を投げかけた。
使者というのは用件を済ませれば、役目を果たしましたと報告に帰るものじゃないの?
そうだが
役目が終わっていないわけでは、ないんでしょう
なんだ、帰ってほしいのか。――ああ。子どもたちの人気を、俺が取ってしまったので、すねているのだな
違います
紅鶴がピシャリと言うと、信晴が声を立てて笑う。
もう、10日もここにいるでしょう。その間、私と一緒に子どもたちと遊んでばかりで、役目らしいことは、なんにもしていないじゃない。だから、聞いたの
これが、俺の役目だ
どういうこと?
ここが、どういう場所なのかを、見極めておるのだ
姻戚(いんせき)関係を結ぶ国の民の暮らしを、調査しているのかしら。子どもたちと仲良くなれば、大人のような誤魔化しができないぶん、ありのままの生活を目の当たりにできるものね
紅鶴は、信晴の目のつけどころに感心した。
ここに、大切な方が来られるからな
大切な方が、来られる?
どういうことだろうと首をかしげた紅鶴に、信晴が顔を近づける。整った男らしい顔立ちが、視界一杯に広がって、紅鶴は硬直した。そんな彼女に気づかぬふうに、信晴は耳元で低くささやく。
ここの領主のひとり娘と、我が国の領主の息子が、婚姻をするのだ
心地よく響く声と、耳にかかる息にドギマギしながら、紅鶴は平生(へいぜい)をよそおった。
大切な方が、領主の娘を迎えに来るから下見をしている、と言いたいのね
いいや。領主の息子が婿入りをするゆえ、どのような風土や習俗なのかを見ておるのだ
婿入りですって!?
紅鶴の声が高くなる。信晴は自分の唇に人差し指をあてて、声を低めるように示した。
まだ、本決まりではないからな。他言せぬように
本決まりではないって、どういうこと
いろいろと事情があるのだ
もしかして、婿入りの件でもめているのかしら。お父様が、婿入りの話を私にしなかったのは、そういうことだから?
まあ、そういうことでな。遊んでおるように見えて、きちんと役目を果たしておるゆえ、案ずるな
心配なんて、していないわ。不思議に思ったから、聞いただけよ
そうか
そうよ
ならばよい
くるりと信晴がきびすを返し、歩きだす。紅鶴はその背を見ながら考えた。
信晴は事前調査をしているのね。きっと国元に文を送っているんだわ。そうして向こうが吟味して、話を進める算段なのね
紅鶴は腹が立った。
そっちから結婚の申し込みをしておいて、来るか来ないか調査をしてから決めるなんて、失礼ね。……それとも、お父様がそうしてほしいとでも、言ったのかしら。でも、どうして
どうした、紅鶴
先を行っていた信晴が、ついてこない紅鶴に振り向いて声をかける。
なんでもない
軽く駆け足で信晴の傍に向かいつつ、紅鶴は思う。
とにかく。帰ったらお父様に、どういうことか聞いてみよう
ああ、そうそう
追いついた紅鶴に、信晴はいたずらっぽい笑みを浮かべて顔を寄せた。あまりの近さに、紅鶴は軽くのけぞる。
明日か明後日には、養子となる予定のお方が到着するゆえ、街道の団子屋で待ってみるか
えっ
俺は迎えの準備があるゆえ、共には行けぬが。少人数であっても、他国の武者行列は珍しいだろう
……私、用事を思い出したから、帰るわね
これは早々に父に話を聞かねばと、紅鶴は大急ぎで屋敷に戻った。
どういうことなのですか、お父様
紅鶴は眉を吊り上げ、詰問した。
まさか、信晴殿がそこまで話をするとはの
楽しげな父に、紅鶴は唇をへの字に曲げる。信晴と紅鶴が共に過ごしていることは、どこからか耳に入っていたのだろう。父はゆったりとした態度で、紅鶴に接していた。
いかにも。先方は婿入りをさせると申されておる
それならば、どうして婚姻の話をなさった折に、そうと教えてくださらなかったのです
それは、そうと決まってはいないからだ
紅鶴の頭上に、疑問符が浮かんだ。
伊香(いか)の国には、ふたりの男児がおる。そのうちのひとりを、こちらへ養子にもらうとは決まっておるのだが、どちらが養子にくるのかは、決まっておらん
紅鶴の額にシワが寄る。
私の夫は、信繁(のぶしげ)様と聞いておりますけれど。別のお方になる可能性もある、と?
今度は父が眉根を寄せて、腕を組んだ。
そうではない。信繁殿と、そなたを縁組するとは、決まっておる。ただ、養子となるのはどちらなのかが、決まっておらぬのだ
紅鶴は父の言葉を自分なりにまとめて、言ってみた。
ひとり娘の私が嫁に行くと、この国の跡取りがいなくなってしまう。それでは困るので、あちらは男児がおふたりだから、どちらかを養子にいただくことになった。けれど、どちらをいただくのかは、決まっていない?
そうだ。ゆえに、そなたが婿を迎えるか、嫁に行くかが定かではないのだ
なるほどと、紅鶴はうなずいた。
そのために、使者である信晴が民の暮らしを検分しているのね。どちらの御子が、こちらへ参られるのがいいかを、調べるために
その言葉を受けた父が、なんともいえない顔をする。
どうなさいましたの
いいや。……まあ、そういうことで、そなたには婿入りの話をしておらなんだのだ
よくわかったと、紅鶴はうなずいて示した。
そなたを手元に残せることは、ワシとしてはありがたい。だが、国の繋がりを強固にするための婚姻と考えると、互いの子を交換すべきだろう。それで、どちらが養子になるかの話が、頓挫しておるというわけだ
お父様は信繁様を養子に迎えたいと、お考えなのかしら。けれど向こうは、それでは不公平だと言っているのかも
思っているよりもずっと、政治的要素の強い結婚なのだと、紅鶴は気を引きしめた。
信晴が言っていた、明日か明後日には到着するという、養子になる予定のお方が信繁様かどうかで、伊香の国がこの国をどの程度、信用しているのかがわかるというわけだわ
紅鶴は戦に挑むような心地で、まだ見ぬ相手に思いを馳せた。
(つづく)