バンの外に出た野崎夫人が目の前に並んだ面々を睥睨する。
彼女が不機嫌になるのも無理は無い。長い時間待たされた挙句、何故か黒狛の社長が玲を伴い、紫月と龍也とアキレウス、それから今回この騒動に駆り出された五人のPMC社員を引き連れて押しかけてきたのだから。
まず、杏樹が必死の弁解をする。
これはどういうことですの?
バンの外に出た野崎夫人が目の前に並んだ面々を睥睨する。
彼女が不機嫌になるのも無理は無い。長い時間待たされた挙句、何故か黒狛の社長が玲を伴い、紫月と龍也とアキレウス、それから今回この騒動に駆り出された五人のPMC社員を引き連れて押しかけてきたのだから。
まず、杏樹が必死の弁解をする。
えーっとですね、まずは誤解を解いておきたいんですけど、そこのスキンヘッドの彼は本当にただの高校生でした。さっき生徒手帳も確認しましたし、間違いないです
ど……どーも
龍也が微妙な笑みで会釈する。
で、火野君と居合わせたそこの彼も無関係の一般人でした。そのあたりで不幸な行き違いが起きて、訳も分からないまま葉群君とPMCが戦闘になってしまい……
理由は言わずもがな、これについては前半部分が嘘っぱちである。
黒狛四号からこれらの事態を知らされて、私が彼らとPMCの方々の仲裁に入って、ようやく事態が沈静化したんです
これは頭の先から爪の先まで完全なる虚実である。
そんなことはどうでも良いのよ
野崎夫人があっさりと一蹴する。酷い女だ。
それより、アキレウスに怪我させたりしてないでしょうね?
それなんですけど……
杏樹が龍也の足元で伏せっているアキレウスを横目に見遣り、何やら言いにくそうにしている。ここから先の話は、紫月どころかPMCの社員達すら知らない。
アキレウス君はオスでしたよね?
それが何か?
この犬、メスなんですよ
は?
何?
これには野崎夫人や紫月だけでなく、龍也や泰山達も驚愕した。
それから、よく見てください。この犬が首に提げているIDカプセル。これは中を開ける為に爪楊枝みたいな細いものを鍵みたいに挿して空けるタイプなんですよ
あら、本当!
野崎夫人が目を丸くして、片手で口元を押さえる。
おそらくこのIDカプセルは特注品でしょう。私の聞き違いで無ければ、アキレウス君が持っているのは百円均一のカプセルだった筈です
じゃあ、この子は別の人のドーベルマンってこと? じゃあ、本物のアキレウス君は?
白猫探偵事務所の社員が預かっているそうです
玲が杏樹の説明を引き継いだ。
実は弊社と全く同じタイミングで、本件と似たような依頼を白猫側も受けていたらしくて。
その子は多分、白猫に依頼した方が探している犬ではないかと
すると何か? 黒狛と白猫に依頼した人が探していた犬を、それぞれが一頭ずつ入れ違いで預かっていたってことですか
要略すると、泰山がいま言った通りだ。
だとしたら変な話っすね
龍也が素朴な疑問を提示する。
さっき黒狛の社長さんから聞いたんすけど、アキレウス君が失踪したのは三日前でしたっけ? じゃあ、白猫がアキレウス君を保護したのはいつの話っすか?
そこに気付いちゃったか
杏樹が渋い顔をする。
そうなのよ。あっちの話だとアキレウス君が保護されたのは失踪直後らしくて、それまでの間、ずーっと事務所内で匿ってたらしいのよね
私に連絡せずに
三日間も!?
野崎夫人が予想通りの反応を示す。
何ですぐに私に報せなかったのよ!?
IDカプセルにはちゃんと私の住所と電話番号が書いてあったのに!
それが……
杏樹がその事情を説明した後、この場に居たほぼ全ての人間にどうしようもない脱力感がのしかかってきた。
白猫探偵事務所のオフィス内は、いまやちょっとした犬小屋と化していた。
部屋の隅に置かれたデオシートと、床に散乱する小さなサッカーボールなどの玩具類、それから犬専用のドライフードがもりもり注がれた大きな皿。
これら全てを、白猫のエースこと、貴陽青葉が瞬く間に買い揃えてしまったのだ。
理由は、彼女とじゃれている黒いドーベルマンにある。
ここ三日間、珍しく楽しそうだな、青葉の奴
あれは顔に出さないだけで、いつも人生を楽しんでいる奴だ
社員の野島弥一が、青葉の様子を遠巻きに眺めながら社長の蓮村幹人にぼやく。
つーか、ここはペットショップでも保健所でもねぇんだぞ
分かってる。でも犬の方がIDカプセルを触らせてくれないのでは飼い主と渡りをつけようもない
学校帰りの青葉が出勤と共に黒いドーベルマンを連れてきた時は、さすがの幹人も飲んでいたコーヒーを噴き出しそうになった。しかも自分で面倒を見るつもりなのか、両手一杯に犬用のお世話用品を抱えていたのだ。
青葉によると、帰り途中に黒いドーベルマン二匹が追いかけっこをしていたらしい。だが追いかけられていた方の姿を途中で見失ったそうで、残された一頭を興味本位で連れて帰ってきたらしい。そこで私はあの犬の首にぶら下がったIDカプセルを取り出そうとしたんだが、こちらが手を伸ばす度に何故か爪で引っ掻いてくるのだ
幹人がガーゼで覆われた右手をこれ見よがしにぷらぷらさせる。
だから最初は保健所に預けようと思ったんだが、今度は青葉の方があの犬を痛く気に入ってしまった。これではさすがに私もお手上げだ
でもこいつの飼い主とは連絡がついたんでしょ?
たまたま黒狛が似たり寄ったりの依頼を受けていたのが幸運だった。あっちのご夫人にもこっちのお嬢様にも既に全ての事情は報告済み。これでゲームセットだ
何にせよ、これで黒いオスのドーベルマンこと、アキレウスは一時間か二時間もしないうちに本来の飼い主のもとへ返される。
しかし、この件に関して幹人には少しだけ負い目があった。
よーしよし、良い子だ
青葉がアキレウスを抱きすくめて背中をわっしゃわっしゃと撫でまわす。
今度、私の友達を紹介してやるからな。葉群紫月といって、あれはとても良い奴だ。きっとお前ともすぐ仲良くなれるぞー
…………
下手に三日間も保護したせいか、拾った当人である青葉の愛着が無駄に深くなってしまった。そんな彼女からアキレウスを取り上げるのは少々心が痛む。
うわっ!?
何かと思ったら、アキレウスが青葉を自らの下に組み敷いて、彼女のお腹の上に馬乗りになっていたのだ。舌を丸出しにして息を荒げているあたり、アキレウスの方も無駄に青葉を気に入ってしまったらしい。
やめろコラ、そんなにべろべろ舐めたら……ってオイ、腰を振るな!
アキレウスが青葉の首筋やうなじを興奮気味に舐めている。これを人間同士のじゃれ合いに置き換えると、中々キマっている絵面に見えて困惑してしまう。
……やはり、飼い主に連絡して正解だったな
ですね
幹人と弥一はそれぞれ半眼でアキレウスを見下ろし、
こらこら、いい加減にしろっ……! 私に獣●の趣味は無い!
やめろと言いつつ、青葉は終始楽しそうにしていた。
今日はマジで死ぬかと思った……
黒狛探偵社のオフィスに戻った紫月は、応接間のソファーにどっかりと腰を落とし、ようやく自らの体に蓄積された疲労の重たさを全て自覚した。
最近は体内のアドレナリンをフル回転させる仕事が何気に多い。今日の戦闘といい、先日の入間との一騎打ちといい、いずれも生半可な体力ではこなしきれない仕事ばっかりだった。
ところで、何であんたらが一緒なワケ?
紫月は対面のソファーに並んで座っている泰山と龍也を見遣った。
龍也が肩身を狭そうにして答える。
いや、だって、ここの社長が俺達に話があるっていうから
右に同じ
泰山が頷くと、玲が三人の前に温かい緑茶が入った湯呑みを差し出す。
ややあって、杏樹がこちらに歩み寄ってきた。
今日はいきなりお呼び立てしてすみません
杏樹はまず、龍也と泰山に頭を下げる。
石谷さん、火野さん、あなた達に折り入ってお願いがありまして――
葉群君の正体についての話でしょう?
泰山がいち早く察してくれた。
彼にどういった事情があるのかはさておき、恥ずかしながら私は彼に敗北してしまいましたからね
その節はうちの葉群が本当に申し訳ないことを――
今回はあなたと葉群君が悪い訳じゃない。大丈夫。我々は葉群君の正体に関するあれこれについて深く詮索する気は無いですし、彼が黒狛の探偵であるという事実についても周囲に公表するつもりはありません。何ならここで誓約書を書いても構わない
気持ちだけはありがたく頂戴します。そこまで言っていただけるなら、弊社としても信用しない理由がありませんし
俺も黙っておきます
龍也も大真面目に答える。
ほら、どうせ葉群さん、同年代に秘密を知る人なんていなさそうですし
言われてみればそうだ。ただでさえ友達が少ない上に、最近親しくなった貴陽青葉ですら紫月の正体を知らないのだから。
一人ぐらいそんなんがいたってイイじゃないっすか。だから、俺も秘密にしておきます
火野君、君は何てイイ人なんだ
外見の恐ろしさと反比例する人の好さだ。やっぱり人を見た目で決めつけるのはあまりよろしくないのかもしれない。
でも、野崎夫人だけは別か。あれは見た目通り性格もケバい。少なくとも、紫月の正体を明かしたとして口を噤んでくれる可能性は無いに等しい感じがする。
杏樹が弛緩しきった表情を見せる。
良かったぁ……二人共、秘密を守ってくれそうな人達で
運が良かったっすね
紫月君はもうちょっと反省なさい。おかげで面倒が重なって大変だったんだから
まあ、終わり良ければ全て良しって言うじゃないっすか
まったく……あ、そうだ
杏樹はけろりと切り替えたように告げる。
実は仕事終わりにこの事務所で鍋パーティーをしようかと思ってるの。ほら、今日は轟君が退院してくる日でもあるし!
ああ、そういえば!
色々あってすっかり忘れていたが、一か月前の戦闘で重傷を負った黒狛の従業員、東屋轟の退院日は丁度今日だった。
玲がいま車で迎えに行ってるし、その間に作っちゃいましょう。実は具材の下ごしらえはもう済ましてあって……あ、石谷さんと火野君も一緒に如何ですか?
いいんすか? やった!
ならば、是非ご相伴に預からせていただきましょう
よし、決まりね!
杏樹は意気揚々とキッチンに向かい、冷蔵庫から下処理を済ませた具材を、そして水道下の棚から土鍋とカセットコンロを引っ張り出した。
紫月くーん、ちょっと手伝ってー
俺、さっきの戦闘で利き手が使えないんすけどぉ
あ、じゃあ俺が行きますわ
まだ元気が残っていたらしい、龍也が代わりにキッチンへ向かった。
楽しそうに料理に打ち興じる二人を見て、泰山が緩み切った笑みを見せる。
なるほど、池谷杏樹に育て上げられた秘蔵の探偵、か。どうりで君は優秀な訳だ
そりゃどうも
依頼で困ったことがあったらうちの会社を頼るといい。俺の部下も君のことは認めている訳だし、きっと喜んで手を貸してくれる
その機会、あんまり来て欲しくないっすね
どうして?
あなた達と組む機会があるとすれば、そりゃドンパチの中でしか有り得ませんし。俺、こうみえて平和主義者なんですよ
なるほど
黒狛探偵社のあるべき姿は、池谷杏樹の人となりが雄弁に物語っている。
泰山も、どうやらそれに気付いたらしい。
たしかに。そういう会社なんだろうな、ここは
戦争屋集団のトップは、全てに得心がいった様子で頷いた。
黒犬パラドクス
おわり