杏樹は自分の執務机でお茶を飲みながら煎餅をかじり、卓上の電波時計をちらちらと見遣った。現在時刻は既に夕方の四時半を回っている。この時間には仕事を切り上げて帰ってくるように紫月には言っておいてあるのだが、果たして彼は何処で道草を食っているのやら。
ため息をつくと、玄関口の扉が開かれる。
……おっそいわねぇ
杏樹は自分の執務机でお茶を飲みながら煎餅をかじり、卓上の電波時計をちらちらと見遣った。現在時刻は既に夕方の四時半を回っている。この時間には仕事を切り上げて帰ってくるように紫月には言っておいてあるのだが、果たして彼は何処で道草を食っているのやら。
ため息をつくと、玄関口の扉が開かれる。
あ、紫月く――なーんだ、玲か
何ですか? その残念そうな反応は
二十代半ばの細身の女性が、杏樹の反応を受けて頬を膨らませる。
彼女は美作玲。紫月と同じく、杏樹の部下の一人だ。
ねぇねぇ、玲。どっかで紫月君の姿を見なかった?
見なかったですけど……彼がどうかしたんですか?
この時間には帰ってこいって言った筈なのに、まだ戻ってないんだよー
紫月君にしては珍しいですね。あ、そういえば……
何かを思い出したようで、玲が天井を見上げながら述べる。
さっきヘリコプターが彩萌体育館の近くに着陸したとかで騒ぎになっていたような……
彩萌体育館ですって?
嫌な予感が早速杏樹の脳裏に浮かび上がった。
それっていつの話?
一時間半ぐらい前じゃないですかね
紫月君が仕事で丁度そのあたりにいる筈なのよ。でも、さっきから何度電話を掛けても出なくって……
落ち込みかける直前、卓上の固定電話が甲高い電子音を奏でる。もしかして紫月か?
もしもし、こちら黒狛探偵社
白猫探偵事務所の蓮村だ
よりにもよって彩萌市内に存在する商売敵からの電話だった。
何の用? いまはそっちに構ってる余裕なんて無いんだけど
早急に確認したいことがある。そっちの方でいま、黒いドーベルマンを探しているとかいう客の依頼を受けてはいないか?
そっちも探偵なら分かるでしょ? 客や依頼の情報をそう簡単にベラベラ喋る訳にはいかないの。駄目駄目! 髭を剃って出直してきなさい!
そうか。せっかく相互利益に繋がる交渉を持ちかけてやろうと思ったのに
はあ?
まあ、たしかにそっちの言う通りだ。私が悪かった。時間を取らせたな。では――
待て!
ちょい待って!
何故だろう。いまここで話を終わらせたら、何かの全てがパーになるような気がした。
『何だね? 私の用件はこれで終わりだが』
その話、詳しく聞かせてもらえる? こっちも情報を開示するから
この私が客や依頼の情報をそう簡単に喋ると思うか?
君も探偵なら分かるだろう?
女性ホルモンを摂取して出直してこい
腹立つ!
すっげぇイラっとする!
ていうか最後のは絶対にただのセクハラだ!
訴えてやる!
……あんた、次会ったらバリカンで髭と頭狩ってパーフェクトハゲにするから
勝手にするがいい。それより、さっきの話だが――
本当なら客の情報を取り扱って行われる他社間の交渉はタブーなのだが、今回の案件は場合が場合なので、レッドゾーンに踏み込む甲斐性も必要だ。
案の定、話し合って正解だった。しかも、悪いのは全て白猫の方だったりする。
あんたねぇ、そんな大事なことを三日間も黙ってたの!?
私も迷ったのだ。何せ青葉が――
言い訳しないっ! とにかく、このことを早く野崎夫人とうちの社員に報せないと大変なことに……
大変なことなら既になっている
は?
黒いドーベルマンを連れた十代半ばの少年が、廃棄区画の真ん中で何者かと交戦中らしい。その様子を覗き見していたうちの部下によると、少年の相手はこの地域で最近設立された民間警備会社の社長だ
嘘ぉ!?
何がどうなっているのかはサッパリだが、少年の方は十中八九、紫月で間違いない。
もしかしてとは思うが、その少年は――
私、ちょっと行ってくる!
有無を言わさず電話を切り、杏樹はオリーブ色の上着と玲の手を引っ掴んで事務所を飛び出した。
ちょっと、社長!?
車を出しなさい! すぐに紫月君を回収するの!
この後買い出しの予定が……
それはもう私が用意しておいたから。ほら、さっさと行く!
せっかく依頼の仕事から帰って来たのに……社長の鬼! 悪魔! 私を休ませろ!
何とでも言うがいい。会社を背負う以上は、そう呼ばれるのも覚悟の上だ。
このままでは、作為的であろうとなかろうと絶対に負ける。上がった息と右手の痺れが、紫月の危機を雄弁に物語っていた。
さすがに限界か
対峙する泰山が腕で額の汗を拭う。
ここまでやる相手なら、俺の部下が負けるのも無理はないか。さっきは面目がどうとか言ってしまったが、これなら俺も納得だよ
何を勝った気でいやがる……!
痺れや痛みに負けず、紫月はさらに十手の柄を深く握り込む。
潰すと決めた相手は必ず殺す。最後の最後まで、倒れるまで
そうまでして戦う理由はもう無い。そっちの話も聞くから、ここは両者痛み分けということには――
断る
紫月は右足を一歩だけ踏み出した。
俺は絶対に、自分から負けやしない
生まれながらにして負けている者はたしかに存在する。それがどういった種類の人間かは明言を避けねばならないが、それでもいるにはいる。生まれながらに勝っても負けてもいない者、生まれながらの勝者には言い訳がましく聞こえるかもしれないが、生まれながらの敗者からすればそれが現実である。
問題は、その現実に悲観して塞ぎ込むか、その現実に対して反旗を翻すか。
俺はそのどちらも選ばなかった。
選ぶ代わりに、生まれ直したからだ。
どうします? あの子
預けられた施設のとある一室で、警官二人と施設の職員一人が困った様子で話し合っている。内容は、両親からの虐待に遭ったところを保護された、とある子供の処遇である。
その話を扉越しに覗き聞きしていた幼年期の紫月は、話に出てきた問題の子供が自分であると察していた。
もうこの施設に子供を迎え入れるキャパは無いって聞きましたが……
そうなんですよ。でも、他の施設だって大体似たり寄ったりでして
こういうご時世ですからねぇ。訳有りの子があまりにも多すぎるんです
誰か里親さえ見つかってくれたなら……
自分一人の存在の為に、三人の大人を困らせている。子供心ながらに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
……おれのせいだ
こんな自分なんて、いなくなってしまえばいい。
紫月は特に深く考えず、何も持たないで施設を飛び出した。お金も食べ物も水も無く、ひたすら歩き続けた三時間はまさに苦行だった。
でも、あんな家で生まれた自分が悪いから、決して文句は言えない。
父親は絵に描いたようなギャンブル三昧で、母親も他の男から金を貢がれてブランド物のバッグを買い漁ったり、夜な夜な近隣のホストで豪遊して金を溶かしていたらしい。それに、生活保護と称された国からの小遣いを不正受給していた疑いもある。
クズの理想を体現した両親がこさえた子供。それが葉群紫月――いや、当時は名前すら与えられていなかった。役所に出生届すら提出していないので、御上から何度も査察が入りそうになったが、奴らはその度に適当な理由を付けて紫月の存在を誤魔化していた。
明らかなネグレクトだ。これが最近、ついにバレて、両親は逮捕された。
これは紫月がまだ、五歳の頃の話だ。
あら、子供が落ちてる
小柄で童顔な女が、大きな目を丸くして不思議そうに紫月を見下ろしている。
おーい、少年。生きてるかえー?
見れば分かんだろ。気づいたら倒れてたんだよ。
でもまあ、もう助かりはしないし、最後にこんな薄汚いボロ雑巾の顔を見物しに来てくれる人がいるだけありがたいと思うべきか。
返事が無い。ただの屍のよーだー……なーんてね。まあ、これも何かの縁だし? あなた、うちの子にならない?
何を言ってるんだ、
この女は。
あたしさ、ついこないだ旦那と離婚しちゃったばっかりで、子供もまだ産んだことが無くてさー。まあ、最初に持つ子供にしちゃあ、ちょっと大きめかもしれないけど? とりあえずさ、たっぷり寝て、たっぷり食べてから話し合おうよ
女は勝手に紫月を背中に乗せて、近くに停めてあった車の後部座席に横たえると、運転席で眠たそうにしていた大柄な髭面の男に意気揚々と命じた。
轟君、GO!
そのガキをどうする気っすか? 俺には誘拐の片棒を担ぐ気はありませんよ
あたしの子供にするっ!
はあ? いや、近くに福祉施設があるでしょ
分かってるって。まずはそっちに連絡するけど、そういう施設は里親を募集してるもんでしょ?
だからって、落ちてた子供をそのまま拾ってく奴がありますか?
つべこべ言わずにとっとと発進する!
はいはい
車が発進すると、すぐに杏樹がペットボトルの水を紫月に手渡した。
喉乾いたでしょ? ほら
…………
礼も言わずに、受け取った水をがぶ飲みする。
いまにして思えば、俺は『ありがとう』の使い方も分からない子供だった気がする。
良い飲みっぷりね。将来有望よ、あなた
……お姉さん、だれ?
あたしは池谷杏樹。通りすがりの探偵よ
あんじゅ? たんてい?
人の名前としては珍しいし、『たんてい』という単語も初めて聞く。
そもそも、産みの親があの調子だったので、知識や教養は無いに等しいのだ。
探偵ってのは、探し物が得意な連中のことさ
運転中、轟と呼ばれた男が答える。
何かを見つけたい誰かの願いを叶える。いまは分からんかもしれんが、いずれはちゃんとそれが分かる時が来るだろ
あの時は彼らの言葉の意味を半分以上も理解していなかった。
でも、いまになったら、少しだけ分かってきた気がする。
車窓から見えた月をぼんやり見上げ、紫月は呟いた。
……月
ちょっとした直感で、紫月は探偵を月明かりに例えた。
世界の色を鎖した暗闇に差す優しい光。それは、杏樹の笑顔みたいに眩しかった。
俺はあの時から生まれ直したんだ。あんなクズ共のキンタマと子宮から這い出てきた薄汚い名も無き子供から、池谷杏樹率いる黒狛探偵社の探偵・葉群紫月として。
だからこそ、どんな状況にあっても、自分から諦める訳にはいかない。
負け続けていた意味を、恐怖を、誰よりも知っているから。
俺は誰にも負けやしない。自分にも、あんたにも
……いいだろう
泰山は再び面持ちを引き締めて警棒を構えた。
来い、坊主
坊主じゃない
大股で、踏み出した足の裏でしっかりと地面を踏みしめる。
俺は黒狛探偵社の、葉群紫月だ!
鋭い踏み込みで泰山に肉薄、既に使い物にならない筈の右手に最大の力を込めて十手を振りかざす。不思議なことに、今度は相手が防戦一方だった。
さっきより速い……!?
うおああああああああああああああああああああっ!
大気を裂かんばかりの雄叫びを喉から絞り出し、何度も何度も、全力で十手を振るい続ける。
気持ちでは絶対勝ってると思い込め。それさえクリアすれば、あとはそれぞれの実力差と体力の残量が勝負を決める。さっきまでは相手の攻撃を凌ぐ方策に集中していたが、右手の限界がそろそろ近いので、体力を温存する必要はもう無くなった。
これがいまの紫月が発揮し得る最大戦速だ。
いつまで持つかは知らないが、こっちがぶっ倒れるまでに相手をぶっ飛ばす!
舐めるな!
泰山の警棒が水平に大振りされ、咄嗟に盾にした十手に直撃。紫月は体勢を崩して地を転がるも、すぐに立ち上がって前方に跳躍。十手を全速力で突き出した。
手から十手が弾かれて宙でくるくる回転する。泰山が手元も見せない速さで打ち払ったのだ。
勝負は決まった――泰山が瞑目しかけたその時、紫月の口角が釣り上がった。
なっ……!?
泰山にも見えていただろう。
いつの間にか紫月の両手に装備された、一本ずつの警棒が。
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!
両手をそれぞれ斜めに一閃させ、X状の打撃を泰山の胴体に直撃させた。
足を宙に浮かし、彼はそのまま重々しく仰向けに倒れ込む。
……そうか。あの時
どうやら察しがついたらしい。紫月が持っている二本の警棒は、最初に倒したツーマンセルの片割れと、最後に戦った部下から押収した代物だ。さっきから十手しか使っていなかったので、隠し持っていたのを知っていながら全然意識していなかった。
泰山はふっと笑って宣言する。
完敗だよ、通りすがりの探偵さん
そりゃどうも
憮然として答えるも、ふらついてしまったから様にならない。
葉群さんっ
駆け付けた龍也が紫月の体を支える。
大丈夫っすか?
ああ。それより、野崎夫人に――
ちょっと、これってどゆこと!?
どういう訳か、杏樹と玲が慌ただしくこちらに駆け寄って来た。
何がどうなったらこんな状況を作り出せんのよ!
社長、あんた何でここに?
とんでもないことが分かったから、泡を食って飛んできたのよ
とんでもないこと?
野崎夫人に合流しましょう。話はそれからよ
たしかに、依頼主と対面しないことには始まらなかった。