3.大きな物事ほど、慎重に進められるもので。
3.大きな物事ほど、慎重に進められるもので。
すぐにでも婚姻の準備がはじまるものと思ったが、屋敷はいつものとおりだった。
準備とか、なんにもしなくていいの?
侍女に問えば、具体的な話が決まるまで、今までどおりに過ごしていいと答えられた。
そんなものなのかしら
よくわからないが、いままでどおりでいいのなら、そのように過ごしていよう。
紅鶴(べにづる)は馬にまたがり、散歩にでかけた。
いいお天気。……今日は、なにをして過ごそうかしら
紅鶴は身分がばれないよう、里に近い武家屋敷に馬を預けて里に向かった。
あ。紅ちゃん
紅ちゃぁあん
子どもたちが大きく手を振りながら、紅鶴の傍に駆けてくる。
昨日のお侍さん、村にきたよ
他の村にも行ってたんだって
なんか、えらい人もいっしょにいたよ
村長(むらおさ)の家に、入ってった!
村長の家に? どうして
わっかんね
わかんなーい
子どもたちが楽しそうに、紅鶴の袖をひっぱる。
使者がどうして、村長のところになんて行ったのかしら。うちの屋敷でもてなしをうけていても、いいはずなのに
紅ちゃん、お侍さんが気になるの?
えっ。……うーん。まあ、そうかな
なら、村長さんとこにいこう
子どもたちが、わあっと走り出す。
ええっ。ちょっと
紅鶴はあわてて追いかけた。
あっ、出てきた
村長の家に到着するまえに、数人の侍が戸口から現れる。その中に、あの青年の姿もあった。
ちょっと待って
子どもたちの足は速い。
あっという間に顔なじみの侍たちを取り囲み、物珍しそうに青年をながめる。
紅鶴はすこし遠くで足を止めた。青年に自分の正体を明かすかどうか、逡巡する。
やあ。そなたは
青年がニコニコと、大股で紅鶴に歩み寄った。
また、会えたな
ええ
ぎこちない笑みを浮かべて、紅鶴は青年の肩ごしに侍たちを見た。誰もが紅鶴のことを知っている。
私とこの人が会っていたと知って、どう思っているのかしら
子どもたちと、俺を見物に来たのか
まあ、そんなところよ
どうした
青年はぎこちない紅鶴に首をかしげ、視線を追って背後の侍たちを見ると、納得顔になった。
身分あるものらと共にあるから、無礼を働いたとでも考えておるのだな
そうね……ええ、そうよ
心配はいらぬ。これから、ひとりで村を見て回ろうと思うておったのだが、丁度よい。そなた、俺を案内してはくれぬか
えっ
連れがいれば、安心だからな
まあ、いいけど
そうか。では、まずはどこへ行こうか。そなたの好きに、俺を連れまわしてくれ
そういわれても、とっさに行き先が浮かぶはずもない。しかし、このまま立っていても仕方がないと、紅鶴は村の外れに足を向けた。
少し遅れて、青年がついてくる。
そうだ。そなたの名を聞いていなかったな。俺は信晴(のぶはる)だ
紅鶴よ
紅鶴か。美しい名だな
紅鶴は胸の辺りがくすぐったくなった。それをごまかすように問う。
名字は
ん?
名字を、名乗らないの
俺とそなたの間に、不要なものを横たわらせずとも、かまわぬだろう
どういう意味?
身分の隔たりを感ずれば、萎縮してしまう。俺はありのままの、民の様子を知りたいのだ
ほがらかな信晴の様子に、紅鶴は面食らった。
不思議ね
なにがだ
身分は、とても大切でしょう。それによって扱いも変わるわ。使者なんだから、相応の立場のはずよ。それを抜きにして、民と交流しようというの?
そうだが
変よ
信晴がきょとんとする。
ここの領主は、そのような人物だと聞いているが、そうではないのか
そうだけど……。それでも、親しくしたって、身分の垣根は消えないわ
俺が侍ということは、姿形から伝わるだろう。最低限のその垣根だけで、十分だ。それ以上に高い塀は、そなたと接するのに不都合にはならないか。たとえば、このように並んで対等の口を利かれはしなくなるだろう
私が領主の娘だと知ったら、この人は態度を変えるのかしら
それは惜しいと、紅鶴は思った。風変わりな使者と対等にやりとりをしていれば、嫁ぐ先の国がどんな場所なのか、聞きだせるかもしれない。
いいわ。じゃあ、名字は聞かない。そのかわり、無礼な、なんて言いながら、腰のものを抜いたりしないと約束をして
刀はむやみに抜くものではない
約束をすると、誓って
わかった。約束をしよう、紅鶴
父のほかに異性に呼び捨てにされた経験のない紅鶴は、頬を赤く染めた。
うん?
なんでもない
顔を背けた紅鶴の腰に、背後から駆け寄ってきた子どもが抱きついた。
紅ちゃん、紅ちゃん! 街道の団子屋にいこう
このお侍さんに里を案内してやってくれって、駄賃をもらったんだ
子どもたちが、ワイワイとふたりを取り囲む。
街道の団子屋に、いまから歩いて行くなんて。戻ってきたら、日暮れになるわよ
紅鶴はチラリと信晴に目を向けた。信晴は楽しそうに、子どもの頭に手を乗せる。
これほど子どもらが目を輝かせておるのだから、さぞかし美味な団子だろう。ならば、ぜひとも賞味せねばなるまいな
わあいと飛びはねた子どもたちが、信晴の袖を引く。
ありのままの、民の様子を知りたいというのは、本心のようね
子どもたちと、じゃれ合うような駆けっこをはじめた信晴の姿に、紅鶴はほほえみを浮かべて後を追った。
(つづく)