短編01「黒狛パラドクス」
短編01「黒狛パラドクス」
いつ如何なる世情においても仕事はやってくる。状況は仕事を呼び、仕事はさらなる仕事の呼び水になる。そうやって世間はいつも回っている。こういう摂理の中で働く人々を、誰が呼んだか歯車と揶揄する者も少なくはない。
この物語は、そんな歯車の一つが動かした、一つの仕事の記録である。
ドーベルマンの捜索……ですか
黒狛探偵社の応接間で、社長の池谷杏樹は眉を寄せて繰り返した。
相手は対面のソファーに腰を落ち着ける、髪と服の色が紫のご婦人である。
野崎さん。念のためにお伺いしますが、警察や保健所に連絡は?
行方不明になってからすぐに入れておりますわ
依頼者、野崎栄子が見た目通りの野太い声で答える。
うちの子……名前はアキレウスっていうんですけど、つい三日前に脱走しまして
どのような形で脱走されたのですか?
ええ、散歩中、仲良くさせて頂いている近所のご婦人方と公園でお喋りに興じている最中に、いきなり持っていたリードが引っ張られまして……
何かと思っていたら、もうアキレウスは私の視界から消えていたんです
いきなり走り去ったんですか?
それはまた、どうして?
私が聞きたいですわ、全くっ
野崎夫人がつんとして顔を背ける。
いつもはとてもおとなしい子で、
ちゃんと言う事を聞いてくれるというのに……
ドーベルマンは賢いですからね。
そうでなくても、ちゃんと調教されているなら逃げ出す理由があると考えた方が早いです
やっぱりそう思います?
やはり池谷さんは聡明でいらっしゃる
あはは……まあ、これでも探偵やってますし
片やデブ夫人、
片や見た目が女子中学生の
四十路探偵。
明らかに妙ちきりんな
絵面だと、杏樹自身も
自覚はしている。
それはともかく、三日も行方知れずはたしかに危険ですね
危険とはいうが、杏樹が感じている危険と野崎夫人が感じている危険は種類が違う。野崎夫人の場合は
どこかでお腹を空かせていないかしら
とか
どこかの悪者に捕まったかもしれない
という、あくまで犬の安全にしか興味が無いような態度をこの場でずっと示し続けている。
だが、杏樹の場合、
「お腹を空かせて近くのものを拾い食いしている可能性がある」
という犬自身の安全衛生面の心配だけでなく、
「空腹に耐えかねて通りすがりの民間人を襲っている可能性がある」
という、周囲への配慮も忘れていない。
主観や客観の差はあれど、いまの二人の認識は食い違いこそはしないが微妙なところですれ違っている。下手な発言は避けるが吉だ。
とにかくそのアキレウスちゃんに
アキレウスは
オスですわ
……アキレウス君に関わる情報を可能な限りこちらに提供して頂く必要があります
探偵が浮気調査や行方調査などをする上で必ず必要なのは、依頼者から提示される調査対象の情報だ。一を聞いて十を知るのがこちらの仕事であって、ゼロから十を知れという無茶振りには応じかねる。
野崎夫人は早速、高そうなブランド物の鞄から取り出したファイルを丸ごと杏樹の前に差し出した。
中を改めると、電話受付で用意するように言っておいたものはきっちり揃っている。
ありがとうございます。では、これから調査方法と料金などについての話し合いをさせて頂きます。
この調子なら全てが円滑に進みそうなので、何なら話が終わった後、すぐにでも調査を開始させて頂きますが?
助かりますわ。さすが天下の黒狛
ど……どうも……あははのはー
いつもならおだてられると調子に乗る杏樹ではあるが、今回はあまり気が合いそうにない相手が依頼主だ。いくら羽振りが良いからといって、簡単に乗せられて痛い目を見るのはもう御免だ。
三十分後、ヒアリングを終え、野崎夫人は満足そうな顔をしてこの探偵社を辞した。
聞いてたわね?
今回はなんて楽な依頼でござんましょ
部屋の奥に鎮座する杏樹の執務机の裏に設えられた扉から出て、葉群紫月は肩を竦めて応接間に歩み寄る。
彼女らの会話は前述の隠し部屋に設置された機材によってリアルタイムでモニタリングしていた。既に紫月も杏樹と同じ情報が与えられた状態である。
久しぶりに平和な仕事が出来そうで何よりです
金持ちの依頼は経験上、あんまり受け付けたくないんだけどねぇ
入間の一件もありますしね。
それより、俺はどうすればいい?
脱走したのが三日前なら、まだ彩萌市から出ていないと見るべきでしょうね。
だからといって市内全体を駆けずり回るようなバカはしたくないでしょ?
だとしたら、犬がたむろしそうな場所を絞るところからですね
紫月は杏樹の執務机から彩萌市のマップを持ち出し、応接間のテーブルに広げ、芯を出していないボールペンの先でとある箇所を示しながら述べる。
野崎夫人のご自宅がこのあたり。脱走した箇所が自宅から約二〇〇メートル離れた公園で、夫人が犬を見失ったのも同じ地点。ドーベルマンの知能と体力で行けそうな範囲をざっくり暗算みたく割り出すと――
このあたりなんかアリじゃないっすか?
紫月が指したのは、彩萌体育館のあたりだった。あの体育館は彩萌市の中学高校が卓球やバドミントン、バスケの予選なんかをよく開いており、付近には人工芝が広がる大きな公園がある。専業主婦が小さな子供を連れてピクニックに興じている姿を、紫月は土日の昼下がりにあの公園でよく目撃している。
杏樹は納得したように頷く。
なるほど。あそこは場所が開けてるし、そこに居たなら誰かしら通報はするよね。IDカプセルのこともあるし、野崎さんに吉報が行くのも時間の問題ってとこかしら
話によれば、アキレウスの首にはIDカプセルが提げられているらしい。カプセルを開けば中から犬の名前と飼い主の連絡先が書かれた紙が出てくるので、保健所や警察に預けなくても、拾った当人が飼い主に連絡しやすい仕組みになっているのだ。
でも、一応は用心しなさいよ
杏樹が面持ちを引き締める。
犬にとって三日間の空白は意外に長いものだと思って。その間に野性化してないとも限らないし、種類が種類だけに厄介事に巻き込まれていないとも言い切れない。
探偵に依頼するって事は、それなりに依頼主もヤバいって感じてる証拠でもあるんだから
承知しました。すぐにでも捜索を始めます
紫月は自分の仕事机の引き出しから十手を取り出し、杏樹から受け取った仕事用のスマホと一緒にジャケットの内ポケットに収めると、足早に探偵社から出動した。
見つけた。捜索開始からおよそ三十分経過した後の話である。
黒く艶やかな体毛、犬としては筋骨隆々の巨躯、鋭い眼差しと凛々しい面持ち。三日間も行方を晦ましたとは思えないオーラを全身から放出するその黒い犬は、問題のドーベルマンことアキレウス君だった。
発見した場所は最初に紫月が当たりを付けていた彩萌体育館付近の共同公園だ。そこ以外の捜索範囲も一応は指定していたのだが、まずは真っ先に可能性の高い場所を一直線で目指していたら、思いの外あっさりと見つかったのである。
だが、あの犬には下手に近づけない。決して体躯の迫力に押されたからではない。
問題は、犬と一緒にジャレている人間の方だった。
おお、よしよし。今度はもっと遠くに飛ばしてみようか
たったいま犬が口に咥えて持って帰ってきたフリスビーを受け取り、これまた大柄なスキンヘッドの男が満面の笑みを浮かべる。
前述通りの見た目に加え、高そうなサングラスと革ジャンを装備した、如何にもマフィアのような風体の名も知れぬ大男。
紫月にとって、犬よりも近寄りたくない相手だった。
……どうしよう、本当に
近くの木陰で遠巻きに一人と一匹の様子を見守りながら、紫月は懐に仕舞ってあった仕事用のスマホに手を伸ばす。とりあえず、見つけたからには依頼者への経過報告を優先しなければならない。
例の大男がオレンジ色のフリスビーを投げ、犬が走って跳躍する。普通に楽しそうだ。
ここで、紫月は彼らから視線を外さずに沈思黙考する。
そもそもあの犬が本当にアキレウスかどうかを確認しなければならない。依頼主への経過報告はそれからでも遅くは無いだろう。でも、明らかに見た目がゴツい兄ちゃんに近寄って良い事があった試しなんて一度も無いし。
でもこれは立派な仕事だ。なら、多少のリスクすら背負わんなんていう甘ったれた戯れ言は犬にでも食わせておけばいい。犬だけに。
いやしかし、だからといって自らが悪食になる必要も無いか。それに、あれがもし本当にマフィア関係者の類だったら、あのマダムにもそれなりの立場があるので、双方で話がこじれた際は非常に厄介なことになる。
こちらがリスクを負うのは当然だが、依頼者に金以外のリスクを背負わせるのは、正直どうなんだろう?
とりあえず、話しておくだけでも
紫月はようやく意を決し、ボイスチェンジャー機能を搭載した特注品のスマホで野崎夫人の携帯番号に発信する。
意外にも、彼女はワンコールで応じてくれた。犬だけに。
あ、もしもし。黒狛探偵社の黒狛四号です
黒狛四号? ああ、池谷社長が言ってたコードネームってやつね
こちらも下手に身分を明かせない立場でして。それより、いまお時間は
全然平気だけど……何? もしかして、もう見つかったのかしら?
ええ。彩萌体育館と隣接する人工芝の大きな共同公園。そこでアキレウス君らしき黒いドーベルマンを見つけたのですが……
え? 本当に!?
やたら喰い気味に迫る野崎夫人。当然だが、嬉しそうだ。
ええ。ですが、少々問題がありまして
問題?
そのドーベルマンを保護している人の見た目が明らかにヤバい人なんです。
あまり変な先入観に捉われるのもどうかと思いますが、もし彼が本当に暴力団関係者だった場合、双方で話がこじれたらちょっと大変なことになるかと思いまして。
だから、もうちょっと慎重に事を運んだ方が得策かと
要は穏便に済ませれば良いのね? だったら私に考えがあるわ
はい? ちょっと、あなた何を――
良い? あなたはそこから動かないで、ずっとアキレウス君とそのヤバい人とやらを見守り続けていなさい
え? 何? 何を始める気?
こちらが不穏当な空気を感じ取った途端、野崎夫人が一方的に通話を切ってしまった。
困ったなぁ。ああいうのに限って、絶対面倒な騒ぎを起こすタイプなんだよ。
ええい、しょうがないっ
ならば、あっちが騒ぎを起こす前にこっちが出しゃばって、早めに事実確認を済ませれば良いだけの話だ。要はあの犬のIDカプセルの中を見せてもらえば済むだけの話なのだから。
紫月は戦々恐々としながら木陰から飛び出し、例のドーベルマンに餌を与える問題の大男の背中に声を掛けた。
あのぉ……ちょっと良いですか?
はい?
男は思ったより素っ頓狂な声を上げる。
すみません、実は僕、知り合いの犬を探しておりまして。
首にIDカプセルを提げた犬で、名前はアキレウスといいまして。犬種は黒いドーベルマンなんですけど
じゃあコイツの事じゃないっすかね
男は犬の背中を撫でながら言った。
俺もついさっきコイツを拾ったばっかりでして。そんで、IDカプセルを開けようとしたんすけど、何故か開けられなくて……
男は犬の首から丁寧にIDカプセルを取り除き、こちらに手渡してくれた。
カプセルの継ぎ目に変な形の小さな穴が空いてるんすけど、これってもしかして鍵が無きゃ開かないタイプの奴なんじゃないっすかね?
鍵? そんなこと、野崎さんは一言も言ってなかったよーな……
もしカプセル開封に鍵が必要なら最初のヒアリングで必ずこちらにスペアキーを手渡しているだろうに。渡し忘れたのか?
まあいい。もう一回、野崎さんに確認を――
あのー、ちょっと良いっすかね?
はい?
意外にも、今度は男の方からこちらに質問してきた。
もしかしてあんた、近隣の高校生っすか?
そうですけど……それが何か
あ、俺、火野龍也っていうモンなんすけど、この近くの帝沢っていう男子校に通ってる一年なんすよ
へぇ、そうなんですか……え?
あっさり納得しそうになったが、いまの発言は紫月にとって大問題に相当する。
高校生?
嘘だろ?
マジかよ!?
しかも俺とタメ!?
見た目からよく
マフィア関係者に間違われるんすけど、
残念ながらマジのマジっす。
本気と書いてマジっす
普通に一般人かよ!?
やっぱり先入観に捉われるのは良くない。人は話し合いの生き物である。
クソ、こうなるんならやっぱりちゃんと確認してから電話するんだった! 早く野崎さんに報告しないと――
紫月が画面をタップする親指を震わせていると、頭上から何やら布を強く叩きつけたような打擲音が連続して降りかかってきた。
二人と一匹が揃いも揃って上を見上げ、愕然とする。
なんと、黒いヘリコプターがゆっくりとこちらへ降下してきたのだ。
なななななななんすかアレ!?
ステルスヘリっすか!?
嘘だろ?
来るの早すぎね!?
いよいよ面倒が始まると思った矢先、着陸してすぐにヘリのドアが開き、中からぞろぞろと黒のヘルメットとタクティカルベスト、特殊警棒を装備した五人の男達が素早く出動する。
五人が手際良く紫月と龍也とアキレウスを取り囲むと、さらに遅れて、ヘリから紫色のご婦人が降りてきた。
アキレウスを
渡しなさい、
この下郎が
ご婦人こと、野崎栄子が不敵な笑みを浮かべる。
その子は私の大切な家族なの。だから、早く離れて頂戴
ちょっと待ってくださいよ!
龍也が驚愕を引っ込めないまま叫ぶ。
俺が何をしたっていうんですか!? ていうか、こんなヤバい連中引き連れた奴にそうおいそれとこの犬を渡せる訳が無いじゃないっすか!
まあ、何て失礼な! そんなこと、あなたに言われたくありませんわ!
待て待て待て!
紫月が二人の仲裁に入る。
このスキンヘッドは本当にただの一般人です! ていうか、俺と同い年ですよ!
あんた誰よ?
関係無いのに口を挟まないでくれる?
誰って――
反論した矢先、すぐに思い出した。
しまった。電話で会話しただけで、俺とこのオバンはこれが初対面だったんだ!
ていうか、この連中は一体何なんすか!
龍也はこちらを警棒の先で威嚇する物騒な連中をぐるりと見渡した。
野崎夫人がさらに得意げになる。
この方達に下手な抵抗は通じないわよ。彼らは元・警察機構特殊部隊の構成員で、いまは独立して民間警備会社を立ち上げた超精鋭集団でもあるの
元・SAT隊員で
現役PMC!?
紫月の声がうわずるのも無理からぬ話だ。SATは日本が有する荒事専門の役職では自衛隊に並ぶ知名度の高さを誇る。さらにそんな連中がPMCに転身したとなると、それこそ戦闘に精通した、いわゆる『戦争屋』などと呼ばれる連中ということになる。
たしかに、一介の高校生や探偵ごときに覆せる相手ではない。
さあ、早くアキレウスを渡しなさい!
言われなくても渡しますって!
あっさり掌を返した龍也が喚くように応じるが、今度はアキレウスの様子がおかしかった。
何故か知らないが、警戒心を丸出しにして喉を鳴らしているのだ。
どうした? あの人がお前の飼い主なんだろう?
アキレウス、もう私を忘れちゃったの?
野崎夫人が犬を相手に猫撫で声で呼びかける。
しかしと言うべきか当然と言うべきか、アキレウスはやはり動かない。それどころか、腰を低くして戦闘態勢に入っているのだ。
紫月は眉をよせてアキレウスを観察する。
まさか、三日間で本当に野性化したのか? でも、ドーベルマンだぞ?
アキレウスが突如として、がうっ! と鳴いたと思ったら、
身を翻して後方の銃手に全速力で体当たりをかました。
残りの四人がアキレウスに警棒の先を向けるが、
駄目! アキレウスを攻撃しないで!
野崎夫人の鋭い一喝のせいで反応が遅れてしまったらしい、襲われた一人と残りの四人が狼狽えている。
何だか知らんが、逃げ出すチャンスはいましか無い!
おいハゲ! いまのうちに逃げるぞ!
う、うっす!
咄嗟の判断が功を奏したのか、アキレウスが顎で逃げ道を示してくれた。紫月と龍也は走り去るアキレウスの背を追って全力で駆け出し、どうにかあの物騒な包囲網からの遁走に成功した。
二人と一匹はしばらく無言で走り、やがて潰れたスナックや風俗店などが立ち並ぶ寂れた一角に腰を落ち着ける。
本当に死ぬかと思った
全くっすよ……!
紫月と龍也が地べたにへたり込んだまま空を見上げて息を荒げる。
ていうか、何で逃げたんでしたっけ、俺達
龍也が素朴な疑問を口にする。
あのまま説得を続けていれば、もしかしたら穏便に済ませられたかもしれないのに
いや、何を言ってもありゃ駄目だ
どうしてっすか?
警戒したままのアキレウスをあのババアに返す訳にはいかない。IDカプセルの中身が分からない以上、こいつが本当にアキレウスかどうかも分からんのに
でもこのままじゃあいつら俺達を追ってきますよ?
だったらやることは一つだ
紫月は立ち上がり、懐から十手を抜いた。
あのババアは人の話を聞くタマじゃない。ゆっくり話し合うのは奴らを無力化してからでも遅くはないだろ。俺があの連中を制圧して、野崎夫人との渡りを隊長につけてもらう
相手は元・SAT隊員っすよ!? 一人で勝てる相手じゃないっすよ!
アキレウスの警戒を解くにはこいつが一番手っ取り早い。それに、いまのあいつらを安全に倒せる方法が一つだけある
何も一人で倒すなんて言ってない。火野、アキレウス。俺に力を貸してくれ