新月の日。
私が、いつものように闇夜に紛れ、地球に降りていた時だった。
誰も居ないはずの深い森に降りていく様子を、一人の男性に目撃されていた。
新月の日。
私が、いつものように闇夜に紛れ、地球に降りていた時だった。
誰も居ないはずの深い森に降りていく様子を、一人の男性に目撃されていた。
なッ!?
男性は、その光景に担いでいた望遠鏡を思わず地面に落としてしまった。
頬を抓ったり、目をこすっては、こちらを凝視し、今目の前で起きている光景が夢の出来事では無いことを確認していた。
私は静かに地面に着地し、彼の存在に気に留めずに何事も無く立ち去ろうと歩きだすと、彼から声をかけてきた。
ちょっと待って! 君は誰?
どこから来たの? 今の何?
これは僕の夢でもなく、見間違いじゃなければ、今君は空から舞い降りて来たよね?
……。
降臨される姿を人間に目撃されるのは初めてではない。こちらは反応せず知らぬ振りすれば、超常現象として人間は夢だと思う。それに他人に話した所で信じないだろう。
すると彼は咄嗟に私の元へ駆け寄り、その流れのまま肩を掴んで私の行く手を阻んだ。
待ってくれ!
そ、その、なんて言葉にしたら良いんだろうか……初めて逢った人に、こういうのもアレなんだけど……。
君に恋をしたんだ!
?
……って、僕を何を言ってるんだ!?
あの、その、いきなりで……。
で、でも、本当なんだ!
自然と口にしていた言葉に、言った本人が一番慌てふためいていた。
しかし、“恋”という言葉が気になった私は、思わず彼の方を振り返り、何度も地球に降りて遠くから人間の言葉を学んだ成果を投げかけた。
それは、どういう、こと?
え、あ……。どういうことと訊かれても、恋とかの気持ちを説明するのは難しいな……。
その、君に興味を持ったんだ。君のことが知りたいし、君とこうして話していたいんだ
彼が言う言葉を私なりに解釈すると、私が地球に興味を持ったのと同じような気持ちなのかと判断した。
今まで私は人間を遠目で眺めるだけだった。
心のどこかでこうして人間と語り合いたかったのかも知れない。
そう……解かった。それで、何を、話す?
えっと……何を。そう! そうだ、君は何処から来たの?
僕の見間違いじゃ無ければ、空から舞い降りて来たよね?
しかもパラシュートも無く……
私は、あそこから、来た……
そう言いながら、姿を隠している月がある場所――夜空を見上げる。
あそこって……
今は見えない。貴方たちが言う、月から
月から?
男は一瞬呆気に取られてしまった。
しかし、私の顔を見つめ、
いや……君のことを信じる。だから、君が言うことも全て信じるよ
優しく笑みを浮かべた。疑うことを知らない純真の子供のように。
そうだ。君の名前は?
あ、僕の名前はアラン・ブラウン。
アランと呼んでくれ
地球に降り立ち、色んな事を知った。そしてこの地球上では、どんなものにも名前が在ることも。
空、雲、木、花……。そして今、私の目の前にいるモノは、生物学というカテゴリーの中で人間と呼ばれているが、人間の個々に名前が付けられている。
ある時、人間たちが名前を呼び合っているのを見たことがあった。
名前を呼び合う……それが少し羨ましいとも思った。
私には名前が無かったからだ。
私がいた場所は“月”と名付けられていたが、それは、地球の周りを廻っている衛星に“月”と名付けられているのであって、私では無い。
私の、名前は……
発言に躊躇していると、
もしかして……名前が無いの?
アランは優しい口調で語りかけてくれた。それは、私を傷つけないように……。
このまま自分の正体を隠しても意味が無いと悟り、
私は……
私が知り得た言葉を使って、自分自身のことを打ち明けた。
月は私であり、私は月であると。
当然の如くアランは先ほどよりも驚きの顔を見せたが、その顔は暫く神妙な顔つきで黙考したあと、笑顔に変わった。
そうか……うん。全て納得できた。
君が空から舞い降りてきたことも、君が何処からやってきたのかも。
そうか、君は月の女神様だったんだ
月の、女神?
そう。神話やおとぎ話とかには、月に女神がいると伝えられているんだ。
でも、それが今証明された。
こうして、僕の目の前にその女神様がいるんだからね……
その月の、女神は、何という名前なの?
えーと、確か……。セレネとかアルテミス、ディアーナとかいうのもあったな……
セレネ、アルテミス……
それらの名前には、何も感じとることは無かったが、
ああ、それと。ルナ、かな
ルナ?
その名前は心に空いた隙間をピースがカチリと埋まるようで、妙にしっくりきた。
ルナ……
もう一度、その名を呟いてみた。
私は、まんざらでもない表情をしていたのか、それとも感じ取ったのか、アランは笑顔で語りかけた。
……うん。君にピッタリの名前だ。
ねぇ、君のことをルナって呼んでいいかな?
ルナ……私の名前……
この日……私はアランと出逢い、彼は私に名前を与え、呼んでくれた。
私にとって、かけがえの無い日となった。
何処に行く当ても無かった私は、アランに誘われるがままに夜道を歩きながら話し合っていた。
……そうだ。ルナは何しに地球にやってきたの?
もしかして、月の女神様も今日の流星群を観にきたりとか。
りゅうせいぐん?
沢山の流れ星が降ることだよ。
で、今日はジャコビニ流星群が出現する日なんだよ。ジャコビニ流星群は十三年に一度出現する流星群なんだよ。
この望遠鏡は、それを見るために持ってきたんだけどね
そういって望遠鏡の方に視線を向けるが、先ほど落とした衝撃でレンズにヒビが入っているらしく、使用不可になっていた。
中でも、今年は大出現の年とも言われてね。きっと、雨のように降り注ぐと思うよ
……降り注ぐというのは、隕石のこと?
うん。そうだよ
月にも、隕石が落ちてきたことがあった。けど、それほど面白くない……
そう? まぁ、隕石が大気圏を突き抜けて落ちてきたら、大変だろうけど……
アランが息を吐くと、白い蒸気となり立ち昇っていく。
それは気温が低いという事を示していた。
その寒さのお陰で、空気は澄んでおり、夜空に雲一つ無く、星が良く見え、キラキラと瞬いていた。
地球は不思議な所……
不思議?
月から見る、あの星々は、あんなに揺らめいて、輝いてはいない……
アランも顔を見上げる。
夜空に満天の星が静寂に瞬いている。
ああ。揺らめいて見えるのは地球に大気があるからだよ
たいき?
まぁ……簡単に言えば空気のことだけど。地球には、酸素とか二酸化炭素などの目に見えない空気が地球をフィルターのように覆っているんだよ。その空気の所為で、ああやって星が揺らいで見えるんだ
……?
アランの言葉に理解が出来なかったその時だった。夜空に一筋の光の線が走った。
あれは……
また、一筋の光の線が走ったと思えば、次々と無数の光の線が走る。
ルナ、あれが流星群だよ!
キラキラと煌く満天の星空に、光の雨が降り注ぐ。
月では決して見ることが出来ない光景に、私は目を奪われてしまった。そして、次々と降り注ぐ流れ星に、ある疑念が浮かぶ。
あれが隕石……。
どうしてアレは、この地まで落ちない?
月には沢山の隕石が落ちたのに。
それは、さっき言った大気のお陰なんだよ。大気が地球を覆っているから、流れ星は大気と衝突してしまう。
その大気の摩擦で隕石は燃えるんだ。あの光は、隕石が燃えているときに発しているものなんだよ。
だから、この地球に落ちてくる前に、大抵は燃え尽きてしまうんだよ。
この光景は、まさしく宇宙と地球の贈り物なんだよ!
アランの説明に耳を傾けつつ、降り注ぐ流星群を眺めていると、ある場所でキランと光ったのが見えた。
こちらへ何かが近づいているのに気が付くと、私は咄嗟にアランを突き飛ばした。
なっ!?
アランが驚きの声をあげる間も無く、手の平に収まるほどの小さな隕石が私たちが居た場所に落ちてきたのだ。
大きな爆発音と共に土煙が舞い上がって爆風が発生し、アランは吹き飛ばされた。
暫しの時間を置き、
ルナーーーー!
砂煙が舞う中、アランは叫んだ。
先ほど自分たちがいた場所に、ぽっかりと浅い穴が出来ており、その穴の中央に私は倒れていた。
しかし、何事も無かったかのように立ち上がり、地面に伏せたままのアランの元へと歩み寄った。
アラン、大丈夫?
アランは声をあげることは出来ず、ただ口をポカーンと開けたまま驚きの表情を浮かべている。
えっ、あっ……
この表情は、今でも忘れられない。
そして、どうやら腰が抜けたらしく、起き上がれないみたいだ。尻餅をついたままで、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
隕石が直撃したにも関わらず、かすり傷一つも負っていない私を見て、
流石は……月の女神さまだけはあるね……
私が人ならざる者だということを再確認したのだった。
しかし……この一夜で、僕の目の前に月の女神様と隕石が落ちてくるなんて。
確率的に天文学的な数字が並ぶんだろうな。宝くじでも買っていれば良かったかも……
アランは、そんな自分の身に降りかかった、にわか信じられない出来事に対して、無邪気に笑った。
だけど、ルナ。この出来事は、僕にとって決して忘れることはない夜になったよ
それから、私はアランと時間が過ぎ去るのも忘れて語り合った。
流れ星のことや星座のこと、そしてアランのことも。
夜明けが近づき、辺りが明るくなってくると共に、私の身体は薄れ透け始めた。
ル、ルナ! 身体が!?
別れの時間……。私は月が陰る時に、地球に、来ることができる。
そして夜の間でしか、地球に居ること出来ない。夜が明けたら、私は月に戻る……
そんな……まるでシンデレラみたいだ。
……いやいや、今はそんな事を言って場合じゃない!
それじゃ新月の日に、ここに来れば。また君に……ルナに逢えるかな?
もし……次の陰りが訪れた時、貴方のことを覚えていたら、逢えるかも知れない
本当! だったら忘れないでくれよ。僕は絶対にルナのことを忘れないし、ずっと想い続ける。
そして星に……じゃなくて、月に願い続けているよ。ルナに逢えることを……約束だよ!
アランが言葉をかけたと同時に、私は姿を消した。
気づいた時、私は月の大地に立っていたのだった。