13│先輩との距離

その夜は、ぐっすりと眠ることができなかった。

夜中、楽しくないまどろみの中、考えていたのは先輩のことだ。




先輩の怒っていた顔。どなり声。
通知のない携帯に、期待している自分。

鳥の声で目が覚めて、私はのろのろと支度をした。

味のしないご飯を無理矢理押し込んで、誰よりも早く登校をした。

先輩のいないであろう屋上を、朝、確認するのが怖かったのだ。

幸谷 舞

おはよーって、どうしたの晴華。

朝から突っ伏しちゃって。寝不足?

川越 晴華

まいまいー……

幸谷 舞

わかった、先輩関連でしょ

跳ねるような言い方は、たぶん冗談のつもりだったのだろう。

でも、どんぴしゃ、その通りだ。


無言で突っ伏していた顔をあげると、あらら、と舞は眉をハの字にした。

幸谷 舞

どうしたの、けんかした?

川越 晴華

怒られた。

万引き犯を捕まえた話をしたら

幸谷 舞

怒られた?

川越 晴華

無茶するなって

舞が私の前の席に腰を下ろし、「無茶するな、かぁ」と繰り返した。

幸谷 舞

晴華のこと、心配してくれて、でしょ

川越 晴華

そうだけど……でもなんか、すごい剣幕で……もう会ってくれないかも

幸谷 舞

え、そう言われたの

川越 晴華

そうじゃないけど……

怒られた、から、会わない、に繋がるのは少し飛躍している。


猫見と人助けのことは、舞には言えない。

でも、それを伏せて話すことは、とても難しい。

川越 晴華

……怒ったまま、いなくなっちゃった

隠しながら、最大限言えること。


怒ったまま、いなくなっちゃった。
ごめんなさいも、言えないまま。


ああ、と舞が困ったように顔を傾ける。

幸谷 舞

そっか、それは辛いね

川越 晴華

……連絡も、私から入れていいかわかんないし

幸谷 舞

連絡したいの?

川越 晴華

いや……少し、怖い

私は首をふるふるとふっていた。

怖い。
もしかしたら、先輩につっぱねられるかもしれない。

怖い。
もしかしたら、うるさいなと一蹴されるかもしれない。

幸谷 舞

そっか。

これは私の意見だけどさ、今は、やめておいた方がいいかもね。

怒ってるとほら、周りが見えなくなるから

言って舞は苦笑する。


ついこの間の自分のことを思い出しているんだろう。

私もつられて小さく笑った。

幸谷 舞

少しだけ時間あけてみたら

川越 晴華

そう……だね、我慢だね

幸谷 舞

うん。

それに、怒った理由って晴華のこと心配して、でしょ?

舞はふ、と小さく笑う。

幸谷 舞

それって、脈ありってことだと思うけどなあ

川越 晴華

脈、ありかあ

幸谷 舞

あれ、あんまり嬉しそうじゃない?

川越 晴華

んー……

机に突っ伏して、考える。


脈ありだとか、脈なしだとか考える心の余裕なんてなかった。

その前に立ちふさがっている謎は……

川越 晴華

何であんなに怒ってたんだろう

『だからそれが脈ありなんだって』と舞は言ったけれど、私はそうじゃないように思えた。




あの寂しそうな瞳。

先輩に、何かあったんだろうか。




本人に訊かなきゃ、わかるはずもないけれど。

先輩と、どこかでばったり会ってしまったら。

それが怖くて、私はずっと教室から動かなかった。




授業中は、ぐるぐると、昨日の会話を思い出す。

確かに、私のことを心配してくれたのは間違いない。

でも、怒鳴るほどに怒るなんて、思わなかった。

私がどこか、鈍感なのだろうか。
何か、間違った言い方をしただろうか。




考えても考えても、もちろん答えは出なかった。

舞のときと一緒だ。

でも、舞のときと違うのは、私からは動けないこと。
訊けないこと。


舞に直球で訪ねることができたのは、その根底にある確かな友情を、信じることができたからだったのかもしれない。




私と、先輩の関係は、どんなものだろう?

私が怒った理由を訊いただけで、がらがらと崩れてしまうとしたら。

川越 晴華

先輩のこと、何にも知らないしなあ

ノートにぐるぐると丸を書きながら、長く小さなためいきをもらす。


先輩が、あんなに怒ることを想像できなかったように、私は何を言えば先輩が許してくれるのかがわからない。

怖くて、何もできない。

逃げるように学校から出て、バスに揺られて、帰る。

部屋で、ベッドに頭からダイブする。


ばふんと跳ねた私の体が、むなしくベッドに沈んでいく。

うつぶせのまま目を閉じる。

クロニャ

晴華にゃん、寝られるのなら、寝た方がいいですよ

私の真横にクロニャがきて、小さく丸まった。

私の頬を、小さな手がぎゅっと押す。

川越 晴華

そうだね、寝ようか

クロニャ

横になるだけでも、体がーー

言いかけて、クロニャが停止する。

目をつむったまま、クロニャの声を待つけれど、一向にしゃべる気配はない。

川越 晴華

クロニャ、どうし……

クロニャ

ニャ、ニャアアアアアアアア!

クロニャ絶叫。

私はベッドの上でびっくりして跳ねてしまった。

目を開けると、全身の毛を逆立てたクロニャが目に入った。

川越 晴華

どうしたの!

クロニャ

あ、あれ、あれ、あれ

クロニャの小さな震える手の先を追うと……

川越 晴華

うわあああああああー!

レイン

叫びすぎですよ、化け物じゃないんですから

クロニャ

化け物だにゃあ、そんな、壁から半分だけ生えてるくせに、びっくしりないほうがおかしいにゃあああ!

クロニャの言う通りだった。

ピンク色の部屋の壁から、レインがにょきりと上半身だけ覗かせている。

そりゃあ、その光景を突然見たら、しばらく黙ったあと叫びだすのも、無理のない話だった。

レイン

上半身が限界なんだよ。

っていうか、クロニャもやればできるから。

今度やりかた教えてあげるよ

クロニャ

いやだにゃあ! 

そんな壁抜けの術みたいな!

レイン

違うから! 

僕の意識をこっちにとばしてるの! 

僕は今、光の部屋。

光から離れられる距離も限界があるからね……声だけじゃ怖いでしょ。

だから姿も見えるようにしてみたのに……

珍しく、レインがしゅんとしている。

私は、レインの登場に驚きつつも、すごくほっとしていたのは確かだった。

川越 晴華

ごめんレイン、びっくりしちゃって……どうしたの?

壁から半分だけ出ているレインは、どうもこうも、と顔をしかめた。

レイン

二人がけんかしてるから……っていうか、光が一方的に怒ってるだけですよね

川越 晴華

私が、怒らせちゃったんだと思うんだけど

レイン

心配するを通り越して、急に怒った先輩、って感じじゃないですか? 

あ、というか晴華さんも、怒ってます? 
光に……

またもや、しゅんとするレイン。

私はあわててかぶりをふる。

川越 晴華

そんなことない、そんなことないよ! 私が怒る理由はないでしょ

レイン

……晴華さんは優しすぎます。僕なら怒ってる

レインは一度目を閉じて、首をぐるりと回した。

レイン

でも、とりあえず、晴華さんが怒ってないのならよかった。


光は意地っ張りだから、僕がいくら謝ろうよって説得しても、僕から何て言えばいいんだとか、晴華さんも怒ってるとか、ぐじぐじぐじぐじ……ちっ

端正な顔をして、舌打ちをなさるレイン様。


でも、頑張って私達を仲直りさせようとしてくれている。

根はいい子なのだ。

レイン

えっと、何だっけ……そう、だから、僕が仲介役になろうと思って

川越 晴華

来てくれたんだね。

ありがと、レイン

お礼を正面から言われることに慣れていないのだろうか。

レインは

レイン

別に、僕が見てられなかっただけですし!

と、つっけんどんに答えてきた。素直じゃない!

レイン

それで、クロニャの気配を頼りに来たんですけど

今日のレインの表情は、ころころと変わる。

目をそらして、次の言葉が言いづらそうな表情だ。

レイン

ここら辺だろうって、うろうろしちゃったんです、この辺と……このアパートの中

最初は、レインが何を言おうとしているのかわからなかった。

しばらく考えて、ああ、と察する。

川越 晴華

そっか、いろいろ見ちゃったってことか

レインが申し訳なさそうに耳を垂れる。

彼が何を言いたいか、もうわかった。

川越 晴華

私がどういう暮らしをしているのか、見ちゃったんだ

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