ノセ隠れ家






六畳程のワンルームに小さなキッチンが付いた安アパートの二階の角部屋。

流し台の上にある小さな窓がこじ開けられている。









シンクは汚れ放題で投げ込まれた鍋や食器にはカビが生えていてひどい悪臭が漂っている。

足元には空になったビール瓶が散乱して足の踏み場も無い。

暗闇で息を殺して立っているヤオ・ミン。






ヤオ・ミン

……






ヤオ・ミンの手には消音装置が取り付けられた三十口径の自動拳銃が握られている。

R国軍がかつて制式採用したというこの軍用銃には極寒地における使用で部品の凍結などで動かないという事態を回避するため、構造が複雑になる安全装置の類が一切付いていない。

それは僅かな誤操作でも弾が飛び出す可能性があると云える。

しかしその危険性を差し引いても弾丸を込めた後はとにかく引き金を引けば弾が飛び出す単純さが小気味良く、ヤオ・ミンはこの銃が気に入っていた。

暗闇に目が慣れるまでの数分間、気配を消しキッチンの壁にもたれ佇立するヤオ・ミン。

やがて暗闇に慣れてくるとヤオ・ミンはポケットから八発の弾丸が込められたマガジンを取り出すと静かにそれを銃に装填した。

ノセ

遅かったじゃねえか、ボートピープル!



奥の部屋、ノセがベッドの上で上半身を起こしてキッチンに向かって言った。

ノセ

人の寝込みを襲うなんざ、やっぱりチャンコロらしいぜ!









キッチンに向かってノセは続けざまに数発発砲した。





暗闇に閃光を続けざまに放ちながら銃弾が1Kのキッチンを仕切っているガラス引き戸を粉々に砕くと激しい音があがった。


ノセ

出てきやがれ、ぶっ殺してやる!




過剰な覚醒剤使用による興奮状態のノセが吠える。


予想はしていた事とはいえ自分を裏切り刺客を放ったヨシオカに対しての怒りはノセを極限まで凶暴化させていた。




ベッドから跳ね起き銃を片手にキッチンへと移動するノセ。

割れて散乱したガラスがノセの足の裏に突き刺さる。

しかし今は痛みを感じない。

頭髪を逆立たせ野獣のように闘争本能をむき出しにしたノセにはヤオ・ミンを倒す事以外余念はなかった。



しかし何処にもヤオ・ミンの気配はない。


狭いキッチンには硝煙の臭いと生ゴミの腐臭が混ざり合い漂っているだけだった。









壁のスイッチに手を伸ばしノセは明かりを付けた。

天井の蛍光管がチラつきながら惨状となったキッチンを白々と照らし出す。

やはりヤオ・ミンはいない。



玄関のドアが開け放されている。

ノセ

畜生、逃げやがったかチャンコロが───


ノセは玄関ドアから上半身を出しドアノブに手をかけ表の様子を伺っている。



その時ノセの背後、キッチンシンク下の収納扉が内側から開いてヤオ・ミンが姿を現した。




そしておもむろに収納スペースから這い出すと全く音を発せずにノセの背後に立った。



右手には鋭く光るナイフが握られている。



次の瞬間ヤオ・ミンは無警戒なノセの背中に向かって躊躇なくナイフを突き立てた。




背中に鋭い痛みを感じノセが振り返る。

ノセ

!!




深々と刺さったナイフの先端はノセの肝臓を的確に貫いていた。


血走った目を見開いてノセがヤオ・ミンを睨みつける。

ノセ

───てめぇ



ノセが呻く。

ヤオ・ミン

……




ヤオ・ミンも切れ長の目に酷薄な笑みを浮かべてノセの目を覗き込んでいる。

ヤオ・ミンがナイフを捻るように引き抜く。

傷口から熱い血が吹き出した。



ノセは苦悶の表情を浮かべながらもヤオ・ミンに銃口を向ける。


ヤオ・ミンはそれには全く動じずナイフでノセの銃を握った手の甲を逡巡することなく切りつけた。






ノセがあまりの疼痛に言葉にならない叫び声を上げて銃を取り落とす。

ノセ

───痛てえじゃねえか、この野郎!




ノセはそう叫ぶと身もだえながらもヤオ・ミンに掴みかかる。


間髪いれずにヤオ・ミンはノセの左頬を切り裂いた。




さすがのノセもこれには堪らず唸り声を上げて後ずさりする。


その瞬間ヤオ・ミンの唇の両端がすっと持ち上がった。


ヤオ・ミン

……



ヤオ・ミンは人の顔面を切り裂く事が何よりも好きだった。



ナイフの切っ先から伝わってくる薄い顔の皮膚と表情筋が裂ける感触、恐怖に慄く眼差し。



ヤオ・ミンの性的感情はその徹底した嗜虐的行為によって至福の境地に達しようとしていた。




ヤオ・ミンの陶酔しきった表情を見てようやくその狂気に気づき畏れをなしたノセは表に逃げだそうとヤオ・ミンに背を向けた。











その場で素早く身を沈めるヤオ・ミン。

次の瞬間ヤオ・ミンの凶悪な刃は、ノセの両足のアキレス腱をすっぱりと切り裂いた。










絶叫しながらノセは三和土に倒れこんだ。













その時、通報で駆けつける黒服隊のパトロールカーのサイレンが聞こえてきた。




ヤオ・ミン

……






ヤオ・ミンは残念そうな様子で銃口を倒れているノセの後頭部に向けると至近距離で銃弾八発全てを発射した。






ノセの頭蓋骨と脳漿と血液とが一緒くたになり、割れた西瓜のように辺りにそれらをまき散らした。




組織から追われたヤオ・ミンは貧しさから逃れようと国を捨てた密航者に混じり小さな漁船でC国を後にした。




出航の夜、ヤオ・ミンは船上から街の灯を眺めた。









祖国を捨てる事に何の感慨も無かった。

良い思い出なんか皆無だった。

ただ生まれて今まで生きてきたというだけの国だった。

殺した人間の顔を思い出そうとしたが直ぐに無駄なことだと思い直した。


ただ自分を売り飛ばした両親と舌を切り取った男を殺せなかった事だけが悔やまれた。







船内の環境は劣悪だった。



乏しい水と食糧の奪い合い、仲間の死体にも齧り付く有様。



悪天候、海賊による略奪。



数々の苦難を乗り越えて数週間後、ヤオ・ミンはこの国にたどり着いた。



放射能汚染により世界から見捨てられた国。



世界地図の上に存在するだけのこの国に……。



















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