……黄金の、海だ

 森を抜けた先の光景に、戦慄する。

 まだ柔らかい暑さと日差しの中で緩やかに戦ぐのは、小麦の穂。たわわに実り、収穫を待つだけの穀物が、風に逆らわずただ穏やかに揺れているのが見える。

 深い緑の森に囲まれた、小さな、宝石のような空間。小麦畑以外にも、休耕地で草を食む牛馬や、刈り取りが終わったばかりの大麦の畑、そして様々な形の葉が茂っている野菜畑もぽつぽつと目に入るが、それでもやはり、圧巻は、この土地の豊かさがはっきりと分かる、金色に染まった小麦畑。書物で読んだ『桃源郷』とやらは、きっとこのような場所なのだろう。駄馬の上で、男はふっと息を吐くと、小麦畑の向こうに見える少しだけ小高い丘に目を向けた。

 丘の上に立つ、がっしりとした石組みの塀の中にある屋敷が、男の目的地。この豊かな地を支配する、王の覚えも目出度い上級貴族である、ヴィクトリアと云う名のまだ若い女領主に求婚し、あわよくばこの地を手に入れることが、貧乏貴族の三男であり、自分が自由にできる領地を求めて遍歴中である男の、目的。

 だか。この地を支配する女領主と結婚する為には『試練』というものを受けることが必要であるらしい。旅の途中で耳にした話を、男はもう一度、脳裏に思い浮かべた。

 その昔、この地を開拓した騎士と、かつては森であったこの地を支配していた妖精との契約により、領主の住む館の地下から湧き出るようになった紫色の酒。その酒を飲み干し、死ななかった者だけが、この土地を支配することを許されるという。これまでにも、この豊かな地を狙う、男と同じような境遇の若者達が次々とその『試練』に挑み、一人として生還しなかったことを、男は風の噂で聞いていた。

俺は、『試練』を超えることができるだろうか?

 不意に、不安に襲われる。

 だが。

『試練』とやらを乗り超えることさえできれば、この地は俺のものだ

 そう思い、男はふっと微笑んだ。

 どうせ苦しみ足掻くだけの命なのだ。そんなもの、惜しくはない。男はこくんと頷くと、乗っている駄馬の腰を蹴って丘へと向かった。

何をしに来た?

 丘の上の、領主の館に続く門の前で、甲高い声に呼び止められる。駄馬の上から首だけ動かすと、ずっと下の方に、小さな影が見えた。

誰、だ?

 まだ幼いが、豊かな金髪に縁取られた顔は高慢な自信に満ちあふれている。着ている緑色のワンピースと、その服に引っかかるように流れ落ちている金色の髪が、この豊かな土地を表しているように男には見えた。

この館の、女領主の妹だろうか?

 そう、判断する。確か女領主には兄弟はいないと、聞いていたのだが。

……


 少女の紫色の瞳に魅せられ、駄馬から降りる。近付いて来た、身なりの貧しい怪しげな男にも、少女は恐怖の色など全く見せず、微笑んで質問を繰り返した。

何をしに来た?
『試練』を受けに来たのか?

勿論

 少女の問いに、はっきりと答える。

何の為に?

自分の領地を得る為に、だ

何を今更、分かりきったことを

 男の声に、呆れが出る。

 だが。

得て、どうするのだ?

え……?

 少女にしては哲学的な問いに、男は答えを失った。

 領地を得ることだけを考えていて、それから後のことは考えていなかった。

 男の無言を答えと見て取ったのだろう。少女は紫色の瞳を鋭く男に向け、そして侮蔑するように笑った。

この土地と、トリを幸せにできぬようなヤツを、妾は受け入れぬぞ

なっ……!

 少女の蔑みに、ムッとする。

 だが、この少女にとっては、自分は、この豊かな土地を収奪に来たならず者と同じなのだろう。その考えに至り、男は少し淋しくなった。自分は、何の為に『自分の領地』を探す旅を続けているのだろうか?

 不意に少女が、白い指を門の奥へと向ける。

行くが良い

 その指に誘われるように、視線を上げる。

 黒い服を着た威厳のある中年男がこちらに向かっているのが、見えた。

 もう一度、少女の方を見る。

 だが。

……え?


 男が少女から視線を外していたほんの一瞬で、少女の姿は消えていた。

 ……まるで、前からそこにいなかったかのように。

 黒い服を着た家令の案内で、客間に入る。

 土地の豊かさに比べると意外に質素な椅子に腰掛ける間もなく、緑色の服に身を包んだ細身の女性が、紫色の液体の入った硝子のデカンタを持って現れた。おそらくこの女性が、件の女領主だろう。

『試練』のことは、知っていますね

 まだ若い、しかし青白い顔色の所為か老けて見える女領主が、震える声で男に尋ねる。

 家令の手によりデカンタからカップに移された紫色の酒を見、そして女領主の、栗色の髪に縁取られた、それでも先程の少女と何処か似ている顔を見やってから、男はこくりと頷いて酒の入ったカップに手を伸ばした。

 そのカップを口に持って行く前に、もう一度、今度はまじまじと女領主を見詰める。俯いた女領主は、何故か泣いているように、男には思えた。……しかし、何故? 自分は、女領主が持つ、豊かな土地と称号を掠め取る為に、此処に居るというのに。定められたこととはいえ、人の命を奪うこの『試練』を、恥じているのだろうか?

馬鹿だ

 ふと、そんな感情が沸き上がってくる。森に囲まれ、隔絶しているこの土地の外では、そのような甘さは通用しない。取るか、取られるか。勝ち残るか負け死ぬか。権謀術数が渦巻く弱肉強食の、酷いとしか言いようの無い世界が、森の外では当たり前だというのに。この女領主は、この世界で生きるには余りにも弱く、壊れ易い。

そうか

 金髪の少女と、彼女の言葉が、不意に脳裏を過る。この土地と、この女を守ることができるかどうかを、この酒と、酒と同じ色の瞳を持つ少女は問うているのだ。自分に、その『力』があるのか、と。

馬鹿にするな

 目の前にいない少女の、紫色の瞳に、心の中でそう、吐き捨てる

このちっぽけな土地と、一人の女を守ることくらい、俺にでもできる
……やってみせる

 だから。

 男は女領主ににっこりと笑いかけると、紫色の酒を一気に、飲み干した。

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