その、次の日。

 その朝は久しぶりに馬で領地を回ろうと思い立ち、ヴィクターは屋敷の裏手にある馬小屋へと向かった。

 だが。馬小屋周辺で響く声に、立ち止まる。

 下男夫妻が亡くなってのち、馬の世話は執事ヘンリーが雇った通いの村人に任せている。通いだから、彼が来る時間ではない。では、誰が居る? 好奇心に半ば負けたヴィクターは、厩の影からそっと、声が聞こえる方向を見やった。

 そこに、居たのは。

だーかーらー、
この瓶の中の毒をちょっとだけ、あいつが飲むあの気持ち悪い紫色の酒の中に入れてくれれば良いだけだって

 調子良さげに話すのは、甥のトレヴァー。そして、トレヴァーの前で俯いて首を横に振っているのは。

……

マリー!

 危うく叫びそうになる。

 ヴィクターが見ている前で、トレヴァーはマリーの腕を掴み、その手に細口の瓶を握らせた。

あいつが死んだら、財産は全て俺の物。お前にも少し分けてやっても良いぜ

……

 渡された瓶を握ったまま、それでも首を横に振り続けるマリー。そのマリーに業を煮やしたのか、トレヴァーはいきなりマリーの横腹に蹴りを入れると、声も無く倒れるマリーを一瞥すらせずその場を去って行った。

マリー!

 トレヴァーの姿が見えなくなってから、マリーを助け起こそうと、倒れているマリーに近付く。

 だが。

 気を失って倒れているマリーの、それでもその手にしっかりと握られた細口の瓶が、目に入る。

……

 裏切られた。

 苦い思いのままに、ヴィクターはマリーに背を向けた。

 その夜。

……マリー

 いつものように『アメシスト』をデカンタに入れて持って来たマリーに、静かに声を掛ける。

……

その酒を、飲み干しなさい

……

 毒を入れるなら、おそらく早いうち。毒が入っていなくても、ヴィクターを裏切ったマリーは『アメシスト』の毒で死ぬ。自分を裏切る女など、必要無い。それが、ヴィクターの偽らざる心。

……

さあ

 マリーから奪うように手にしたデカンタからテーブルの上のグラスに『アメシスト』を注ぎ、マリーに渡す。

……

 グラスを受け取ったマリーは一瞬、ヴィクターを見たが、すぐに目を瞑り、グラスを自身の唇に這わせた。

……

 緊迫した時間が、流れる。

 一分経っても、二分経っても、目を瞑ったマリーの強ばった身体は、倒れる気配すらしなかった。

 これは、もしかすると。

……マリー

 そっと、細い身体に手を伸ばす。

 次の瞬間、グラスが床で砕ける音と共に、マリーの身体はヴィクターの両腕の中に、あった。

……

 静かな寝息が、耳を打つ。

 ヴィクターのベッドに寝かされた、マリーの安らかな息が、ヴィクターの心を優しく撫でた。

過度の緊張で気を失ったのだと、思われます

 ヴィクターの叫びで執事ヘンリーが呼んだ村の医者は、確かに、そう、言っていた。毒を飲んだ気配は、無い、と。

 そう、『アメシスト』を飲んだのに、マリーは死ななかった。『試練』を超えたのだ。

……旦那様

 眠るマリーにほっと息を吐くヴィクターの前に、何時に無く憔悴しきったヘンリーが、二つの包みを持って現れる。

マリーの部屋から、これが

 包みの一つ、細長い形の物を、まずヘンリーはヴィクターに手渡した。

 包みの中身は見なくても分かる。トレヴァーがマリーに押し付けた、毒の入った小瓶だろう。ご丁寧に、包みにタグがついている。

これは毒です。
トレヴァー様から手渡されました。

 日付と共にそう書かれた美しい文字に、目を細める。

 マリーは、ヴィクターを裏切った訳ではなかった。トレヴァーがマリー以外の人間にヴィクター暗殺を示唆することを危惧し、首を横に振りながらもトレヴァーに同意した振りをして、毒が他の人の手に渡らないよう、必死で小瓶を握っていたのだ。

疑って、悪かった

 心の中で、ヴィクターはマリーに謝った。

 そして。

こちらを

 ヘンリーがヴィクターに手渡した、もう一つの包みは、小さな紙製の箱。

 その箱の中には、ヴィクターの思い出を刺激する物が入っていた。

これは

申し訳ありません

 驚愕するヴィクターの耳に、ヘンリーの沈んだ声が響く。

 箱の中に入っていたのは、ヴィクターが昔、あの浅黒い肌の少女に手渡した、母の形見のロケット。屋敷の玄関前に捨てられていた赤ん坊が持っていた物を、ヴィクターより先に赤ん坊を見つけたヘンリーが拾い、隠したものだという。

……まさか

 更なる驚愕が、ヴィクターを襲う。

マリーは、俺の、娘なのか?

本当に、申し訳ないことをしました

 再びヴィクターに向かって頭を下げるヘンリーの声が、ヴィクターの思考を裏付ける。

そうか

 ヴィクターはヘンリーに、その一言しか言えなかった。

 次の朝。

おはよう、マリー

 おずおずと朝食後のお茶を運んで来たマリーに、ヴィクターは優しく声を掛けた。

さっき、トレヴァーが来たよ

……

 トレヴァーという名前に、びくっと身を震わせるマリー。その反応を面白がりながらも、ヴィクターは優しく更に付け加えた。

もう来ないがね

 朝早く屋敷に現れたトレヴァーを、ヴィクターはヘンリーに言いつけて朝食の席に誘った。そして出した料理全てに『アメシスト』を入れるよう、ヘンリーに指示した。勿論トレヴァーは何も考えずに朝食を食べ、『試練』を乗り越えることは無かった。

自業自得だ

 トレヴァーの死に顔を思い出し、顔を顰める。

 あいつのことはとっとと忘れて、今はマリーのことに集中しよう。自分の嫁探しは終わりだ。『試練』を乗り越えることができる誠実な男を、マリーの為に見つけよう。

どうした、マリー?

……

 まだおどおどと自分を見詰めるマリーに、ヴィクターは今度は父親のように優しく笑いかけた。

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