重要な用事があるにも関わらず、寝過ごしてしまうのは世の常である。深春もその例からは漏れていなかった。もっとも、少し急げば充分取り返せるだけの遅れで済んだのだが。
イベント会場の地図、わずかばかりの所持金など、必要な道具を素早く手提げに詰めていく。何より忘れてはいけない、今日のための衣装に手をかけたとき、その胸元にほつれが見えた。
うひゃあ! もうこんな時間!?
重要な用事があるにも関わらず、寝過ごしてしまうのは世の常である。深春もその例からは漏れていなかった。もっとも、少し急げば充分取り返せるだけの遅れで済んだのだが。
イベント会場の地図、わずかばかりの所持金など、必要な道具を素早く手提げに詰めていく。何より忘れてはいけない、今日のための衣装に手をかけたとき、その胸元にほつれが見えた。
やば……いつの間に。
入念にチェックしたつもりでいても、何かしらのミスは見つかるものだ。このまま着ても目立つようなものではなかったが、場所が場所だけに、本番中に裂けてしまうような事故は想像したくない。かと言って、修繕してから出発する余裕はない。
現場で直そう。ちょっとなら時間あるよね?
そう思い直し、これ以上ほつれが広がらないよう、なるべく丁寧に衣装をビニール袋に詰め、ソーイングセットの小箱とあわせて手提げに押し込んだ。
行ってきます!
別に聞く者がいるでもないが、少しかしこまって、深春は部屋を出た。
な、なんとか、間に合った……。
イベント会場が住居に近かったのが幸いだった。無事刻限までに辿り着いた深春はスタッフへの挨拶を済ませ、ステージ衣装への着替えのために楽屋に入ったところである。
さっさと準備を済ませて、と手提げを開こうとしたとき、部屋の奥に先客がいることに気づいた。
……。
若い女性らしい。髪は透き通るような銀髪で、柔和かつ上品な雰囲気を漂わせている(深春は何かを思い出しそうな気がしたが、それが何なのかはわからなかった)だが、きょろきょろと周囲を見回しており、何か困惑した様子だ。
困りましたね……。
もはや困っていることは明白だ。深春は声を掛けることにした。
あの、どうされましたか?
今日使う衣装が壊れてしまって。直したいのですが、道具を持って来なかったのです。
ソーイングセットでよければ、私、持ってますよ。
深春は手提げをまさぐり、出て来た小箱を目の前の女性に差し出す。
これ、使って下さい。
見ず知らずの私にここまで……恩に着ます。
安堵の表情を見せた女性は、楽屋の畳に広げられていた衣装と思しき布の塊に取り付き修繕を始めた。糸掛け、運針、全ての動きに無駄がなく、深春は思わず瞠目する。
手際いいなあ……スタイリストさんかな?
ぼんやりと思考を巡らせていた深春に、声が掛かった。
七瀬さん、5分前です、七瀬さん!
いっけない! 着替えてなかった!
慌てて手提げをひっくり返し、こぼれ出たビニール袋から衣装一式を取り出す。袖を通しジッパーを上げたとき、そういえば胸元がほつれていたのを直すつもりだった、と思い出したが、もはや修繕に割ける時間はない。仕方ない、このまま出よう、と扉に向かったとき。
あの、その衣装、ほつれていませんか。
ふと、背後から声を掛けられた。
えっ!? はい、そうなんですけど、もう時間ないのでこのまま行きます!
私にまかせて。糸も合っているから。
えっ? えっ??
言うが早いか、女性は深春の前に歩み寄り、その衣装の胸元を掴んで針を刺した。突然のことに当惑する深春。
あ、あのっ! 脱ぎます……から!
動かないで。すぐ済みます。
その言葉に嘘はなく、深春に着せたままの衣装を彼女は素早く修繕してみせた。これならば本番中に事故はないだろう。だが、ほつれてしまった糸が残っている。
彼女は深春から借りた小箱を一瞥した。糸切りバサミくらいは入っているだろうが手が届かない。取りに戻る時間を惜しんだのだろう、一瞬の躊躇の後、
彼女は、深春の胸元に口唇を寄せた。
えええええぇぇぇぇぇ!?
顔中真っ赤に染まった深春を気にもとめず、ほつれた糸を口に含み、器用に犬歯を使って切ってゆく。
ややあって顔を上げた彼女は、口に含んだ糸を指で摘み取った後、
出来ました。行ってらっしゃい。
軽く微笑みかけた。
血液が沸騰しかかっていた深春だったが、すぐ正気を取り戻し、
い、行ってきます!
いささか珍妙な叫びを上げながら楽屋を飛び出していった。
深春のデビューイベント自体は問題なく終わった。メイドコンテスト優勝者とはいえ、世間からの注目は決して厚いとは言えず、プレス二、三名を除けば、この手合のイベントの常連客のような人々が集まった程度だった。
いやあ、これからの努力次第ですよ。
そんなスタッフの苦笑を余所に、深春の心はある問題に占められていた。
あの人……誰だったんだろう……。
時間がなかった上に気も動転していたし、名前さえ聞いていなかった。お礼もちゃんと言っていないし、できればソーイングセットは返してもらったほうが懐にはありがたい。
誰かに聞けばわかるだろうか、と深春が思案を始めたとき、にわかに廊下が騒がしくなった。
お疲れ様でした! 今日も素晴らしいステージでしたよ!
そんな声が聞こえる。どうやら、何者かがスタッフや取り巻きのような人々に囲まれているらしい。
その姿に深春は見覚えがあった。
えっと……カーミラ、さん?
まさに昨日テレビのトークショーで見た、あのヴァンパイアアイドルが、まるで下僕のような大勢を引き連れ、深春の目の前を歩いている。
ご苦労。そなたらの助力により王国の復活はまた一歩近づいたぞ……。
その言葉に周囲から歓声が上がる。何人が意味を理解しているのかはよくわからないが、その辺りを差し引いて見ても、王者と呼んで不足はない風格を彼女は備えていた。
しばらく取り巻きと会話をしていたカーミラだったが、ふとその視線が泳ぎ、深春を捉えた。
あっ! え、えっと、おはようございます!
思わず直立不動の姿勢になりながら、ああ、芸能界ではこういうときなんて言うんだっけ、と必死に頭脳データベースを回転させた結果出た言葉だった。言った途端に情けなくなったが、カーミラは別に構う様子もなく、つかつかと歩みを進めて来る。
ここにいたか。探したぞ。
えっ? 探した? 私を?
深春にはカーミラに探される覚えはまるでない。現実に思考が追いつかず棒立ちになっている間に、ほぼゼロ距離までに詰められてしまう。
え、ちょ、や、近……!
そのまま耳元に口唇を寄せられ、深春は思わず目を閉じる。
世話になったな。返すぞ。
そう、囁きかけられた。
深春が目を開けたとき、カーミラの姿はすでになく、彼女のいた場所には見慣れた小箱が置かれていた。吸い寄せられるようにして、深春はそれを拾い上げる。
これは……あの人……!?
深春の頭の中で、記憶という端布に推理の糸が次々と通り、一瞬のうちに銀色のタペストリーを作り上げた。
箱が完全に閉じていないことに気づき、蓋を開けると、小さな便箋のような紙が飛び出してきた。
七瀬深春様
この度は大変お世話になりました
お陰様で万全の状態でステージを迎えることができ、皆様のご期待に添えたことと喜んでおります
またお話ししましょう
Carmilla
全身の力が抜け、へなへなとその場にくずおれる深春だった。