教室には、
控えめな感じの女子が発する、
おどおどした声が響いている。

メ、メロスは激怒した。必ずや――

国語の授業が新しい単元に入ったので、
まずは本文をいくつかのパートに分けて、
一人ずつ音読することになる。

芯条くん、芯条くん

音読しているのとは違う、
落ち着いた調子の女子の声が僕の名を呼んだ。

僕の斜め前の席の女子、
沙鳥の声だ。

ただし、
沙鳥は周りの迷惑も考えず私語を堂々として
授業の邪魔を行うような、
やんちゃな人ではない。

彼女の声は僕だけにしか聞こえていない。

僕と沙鳥は、頭の中だけで言葉を伝達できる、
いわゆる『テレパス』と呼ばれる超能力者なのだ。

ねえ、知ってます? 芯条くん?

まあ要するに、
僕だけはしっかり授業を邪魔されるわけだけど。

……何?

僕は頭の中で返事をした。

今は物語の流れを音読で追うだけの時間。
僕は前に読んだことがあるし、
少しは沙鳥の無駄話につきあってもいい。

しりとりって遊び知ってます?

そりゃ知ってるよ

しりとりの存在を知らずに育つのは難しい。

前の人が言った言葉の最後の文字をとって、それを頭文字にした言葉を次の人が言って、それを繰り返すんですよ

だから、知ってるって

で、負けた人は砂の柱になるんです

そのルールは初耳だけど

あ。ごめんなさい。砂の柱になるのは、別の遊びでした

遊びなのそれ? 呪いって感じだけど……

で、しりとり、やるんならやってもいいですよ? どうします? ん?

いや、なんで僕がどうしてもしりとりやりたい人みたいになってるのかな

だって、やりたそうな顔してたので

顔は見えないだろ

沙鳥が座ってるのは僕の斜め前だ。

僕から沙鳥の横顔は見えるけど、
沙鳥から僕の姿は見られない。

ふっふっふ。ここだけの話。実は私、エスパーだったのです

知ってるよ

エスパーだからこそできてる会話だし。

僕らができるのテレパシーだけだろ

実は後頭部に第三の目があるのです

それはエスパーっていうよりミュータントだな

鋭いな小僧

誰が小僧だ

たしかに、わたしに第三の目などない

だがいずれ必ずや第四、第五の目が現れるであろう

何言ってんだ

じゃあ、冗談はこのくらいにして、しりとりやりますか

沙鳥。全然、スムーズに誘導できてないからな

それじゃ、わたしからですね

だめだこの子。
聞く耳、いや、聞く脳を持ってない。

それじゃー、『しりとり』の……

『ぬ』!

どっから『ぬ』出てきたんだよ

セリヌンティウスさんのヌです

しりとりなんだから、尻からとれよ……

ていうか一応、授業聞いてたんだな。

ぬ、ぬ……

沙鳥は、ぬのつく言葉を探した。

ぬ……

ええ? ぬ……?

……

やがて沙鳥の思考は途絶えた。

『ぬ』から始まる言葉なんて世の中にありましたっけ?

うそだろ?

勝手に始めたしりとりで、
勝手につまづいている。

最後に『ん』がついてもいいルールにしていいですか?

だめだろ。しりとりの根底を覆すなよ

ついでに擬音とかもありにしません? ぬるー、とか。ぬぺー、とか

じゃあ、なんでもありだろ。それもだめ

わたしこの勝負、どうしても勝ちたいんです

擬音ありにしたら、きっと勝ち負けなくなるよ?

では、八方ふさがりってわけですね

万事休す

背水の陣

袋の鼠

孤立無援

四面楚歌

そのボキャブラリーで、なんで『ぬ』のつく言葉一つが出てこない?

あー、だめです。どんなに考えてもぬらりひょんしか浮かびません

妖怪の偉い人。

いや、偉い妖怪。

よくそれがとっさにでてきたな

ほんと、不思議です

恋ですかね?

違うだろ

んー、ぬらりひょん以外で『ぬ』のつく言葉……

沙鳥は再び長考に入った。

シリトリスト芯条くん

勝手に妙な役職に就任させるな

ぬらりひょろだったらいいですか?

ぬらりひょろ?

『ん』はついてないですよね

ついてないけど……。ぬらりひょろって何?

ふふーんです

一部地域の人たちのあいだで、ぬらりひょんのことをぬらりひょろって言うんです

一部地域ってどこ?

余所見中で、これから流行の兆しです

余所見(よそみ)中学校とは、
僕らの通うこの中学のことだ。

現時点で存在しない言葉はだめだ

シリトリアン芯条厳しいです

さっきと役職違うぞ

うーん……。ぬ……。ぬ……








――数分後。


生徒の朗読が進む中、
沙鳥はまだ『ぬ』に苦しめられていた。

ぬ……。ぬ……

僕も苦しめられていた。

テレパスだからといって、
考えてることがすべて筒抜けになるわけじゃない。

声の大きさが調整できるみたく、
思考の大きさを調整できるから、
相手に伝えたくないことなら
『小さく』考えれば届かない。

ぬ……。ぬ……

けれども、
沙鳥は頭をフルに使って、
全力でぬーぬー考えているから、
僕の頭にもその思考が響いてしまうのだ。

ぬ……。ぬ……

僕も沙鳥と同じく、
『ぬ』にうなされているようなものだ。

ぬ……。ぬ……

いい加減、早く見つけてくれ……。
僕は沙鳥が悩んでる間に、結構見つけたのに。




沼、




ぬか、




ヌー、




ヌートリア、




ぬえ、




ぬれせんべい、




ヌルハチ、




ぬっぺふほふ、




たくさんあるじゃないか。

……いや、思ったよりあんまりなかったな。
沙鳥がこんなに悩むのも、
無理はないのかもしれない。

侮れないぞ、ぬ。

いやでも、一個くらい出るだろう。

ぬ……。ぬ……。……

沙鳥の思考が一瞬途絶えて、また再開した。

ね……

変えちゃだめだろ

だって『ね』だったら出そうな気がしたんですもん

だからしりとりの根底を覆すなって

もー。いきなり『ぬ』からだなんて難易度高すぎですよ

容赦ないですね、芯条くん

僕、何もしてないんだけど

沙鳥が勝手に難しい言葉からスタートして、
自滅しただけだ。

芯条くんじゃないのなら、いったい誰が私をこんなに苦しめているんですか?

強いて言えば犯人は、
『ぬ』のつく言葉を沙鳥に選ばせる、
きっかけになった男だろ。

そう。勇者の竹馬の友。

セリヌン――

セリヌンティウスは全てを察した様子で、のところから

不意に先生の声がした。

もちろんテレパシーでなく、本当の声だ。

芯条、読め

へ?

へ、じゃない。読め。きみの番だ

あ。はい

沙鳥と、しりとりをしている間に……。

いや、しりとりしてたのは沙鳥だけだな。
何もしていない間に、
僕のところまで、
朗読の順番がまわってきてしまった。

沙鳥、邪魔しないでくれよ?

さすがに、
テレパシーで脳内に乱入されながらでは、
朗読しにくい。

任されよ

なんだその言い回し

僕は席を立つと、
指示をされた場所から教科書の朗読を始めた。

――私を殴れ――

ぬ……

さっそく約束を反故にする沙鳥。

――ありがとう、友よ―

ぬ……

――君は、まっぱだかじゃないか――

……あ!

わかりました! ぬのつく言葉! 芯条くん、あった、ありました!

今、朗読中なんですけど……。

僕は気にしないようにして、
続きを読み進めた。

――このかわいい娘さんは――

『ぬ』のつく言葉――

沙鳥は、
もし思考が音になるなら、
教室中に響くような強さで僕に念じた。

ヌーディストビーチ!

……









僕はひどく赤面した。

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