本日の売上は五四〇円也。
しかもそのうちの大半は小木曽が買ったグルーの代金。お客さんはペットボトル一本を買っていった長距離ドライバーらしきおじさん一人だけだ。
本日の売上は五四〇円也。
しかもそのうちの大半は小木曽が買ったグルーの代金。お客さんはペットボトル一本を買っていった長距離ドライバーらしきおじさん一人だけだ。
やったよ、高橋くん! 商品が売れたよ!
このコンビニどうやって経営してるんだろう?
そ、それはよかったですね
これからきっと少しずつ売上も伸びていくよ。これも全部高橋くんのおかげだよ
そこまで言われるとちょっと気が引けるんですが
売ったのペットボトル一本だし
いやぁ、本当にありがとう。今日はあがりだけど、明日もよろしくね
はい、お疲れ様です
百手に頭を下げて、要はロッカールームに向かう。今日は昨日より疲れたような気がする。
ゆかりに振り回されたこともあるし、なにより自分が働いているすぐ近くでだらけている人間を見るほど精神的にクるものはない。
今日は早めに寝よう
フラフラと覚束ない足取りでシャワールームの前を通り過ぎ、ロッカールームの扉を開ける。
あ、要くんお疲れー
お疲、れ!?
酸欠状態の脳に一気に血が巡る。
な、な、なんで富良野さんがここにいるの!?
だってここロッカーだよ? 着替えにきたんじゃん
そうじゃなくてぇ!
ここのロッカー男女兼用だよ。知らなかった?
そんなの一言も聞いてない!
あ、ロッカー奥? どいた方がいい?
そういうことじゃなくて!
着替え途中のゆかりはスカートはしっかり履いているものの、ブラウスのボタンは全開のまま。
肌はほとんど包帯が巻かれて隠れているが、下着から覗く谷間が要の瞳に焼きつく。
と、とにかくごめんなさい!
くるりと踵を返して、今入ってきたドアを乱暴に開けて、外に飛び出す。
はぁ、本当に心臓に悪い
男女兼用だと伝えていないことも、ついでに言えばそもそもロッカーを分けてないこともおかしいのだが。
他に男しかいなかったら、普通鍵かけるよね!?
網膜に焼きついた光景を消すために、要は何度も頭を振る。
おい
はいぃ!
息をついたと同時に要の耳元で暗い声が囁かれる。
ここで何してる?
あ、いや富良野さんが着替えてるから待ってるんですけど
じゃあ何でそこから出てきた?
見られてたー!
浅黒い肌の小木曽の腕が要の制服の胸倉を掴む。
細い腕だと思ったのに、そのまま持ち上げられそうな勢いに要は背筋が凍った。
はーい、終わったよ。って二人とも何やってんの?
あ、富良野さん
姫、ご無事ですか?
あー、裕一。なに要くんいじめてるの。その手離しなさい
はい
ようやく要はつま先立ちから解放される。くしゃりと皺のついた制服が怖い。
助かったよ
それはよかった。それじゃ、これあげるね
そういって開封済みのスナック菓子が渡される。
食べかけ、と思ったのよりも先に袋の口から湧き出る紫色の煙と鼻を襲う刺激臭に要は飛び退いた。
何それ!?
だからお菓子。お疲れ様のプレゼント
いらないよ。っていうか何が入ってるの?
んーと、あたしの愛情?
愛情はそんな毒々しい色してません!
そんなことないよ。ほら、甘酸っぱい青春の香りがするでしょ?
甘酸っぱくないよ! 酸性とアルカリ性の洗剤混ぜたような注意書きで絶対発生させちゃいけませんって書いてある臭いしかしてないから!
そんなぁ。せっかく用意したのに
要は頬に指を当てて悩んだ振りをするゆかりの横をすり抜け、ロッカールームに入ると、すぐさま扉を閉めて鍵をかける。
あ、ちょっと。なんで逃げるの?
そりゃそんなもの食べたくないからだよ
自分のロッカーを開けて中身に異変がないか調べてみる。特に変な臭いはしない。
まったく。そういえばもらった飴も変な味したし、食べたかしきりに聞いてくるし。何なんだろ、餌付け?
ついでに不可抗力とはいえ色仕掛けも喰らったし
そこまで言って、また要の脳内にあの光景がフラッシュバック思想になる。早くここから出ようと要はすぐに制服を脱ぎ始めた。
着替えを済ませ、ロッカールームのドアに耳を当てる。
特別物音は聞こえない。帰ったのだろうか、とゆっくりとドアを開けた。
いない。飽きて帰ったかな
安心して大きく伸びをしてから、要は重たい足取りで出口を目指す。
レジ脇から出ようとして休憩室の畳で転がっている百手に呼び止められた。
あ、高橋くん。お疲れ様
お疲れ様です
ごろごろと畳の上を転がる姿は休日のおじさんというより太った大型犬に近い。
手に持ったせんべいをかじりながらテレビを見る姿からは、昨日見た触手をまとう化け物の影はまったくなかった。
富良野さんがお土産置いていったよ。ずいぶんと気に入られたみたいだね
これ、さっきの
食べたいなら止めないけど、やめたほうがいいと思うよ
食べませんよ
それが賢明だね。食べたら小木曽くんみたいになっちゃうよ
これなんなんですか?
平たく言えばウイルスかな。彼女から生成されているゾンビウイルス
ゾ、ゾンビ!?
まぁ、私が勝手にそう言っているだけで本当にゾンビかはわからないけどね。とにかくウイルス感染したら彼女の言いなりになっちゃうみたいだから気をつけてね。あの味と臭いのものを好んで食べる人はいないだろうけど
今日もらった飴、食べちゃったんですけど……
えぇ。よく我慢したね
もらったものだし、捨てるのも気がひけて
働いてもらってる私が言うのも難だけど、高橋くんは人が良すぎるよ
感染したら小木曽さんみたいに肌黒くなるのかな?
でもあのウイルス潜伏期間がほとんどないからもう発症してるはずなんだけどね。今日富良野さんのお願い断ったよね?
はい。グルー買って、とかなんとか
うーん。未知のウイルスだからなんとも言えないけど、高橋くんは抗体とか持ってたりする?
そんなの俺にもわかりませんよ
ま、とにかく店内にあの紫色の激臭を撒かれても困るし、商品にウイルス仕込まれても困るから彼女はほとんど働けないよ。よろしくね
何で雇ってるんですか
要はがっくりと肩を落とす。
それじゃ、お疲れ様でした
お疲れ様ー
百手に見送られてコンビニから出る。
まったくそのキャパシティを生かせない駐車場の端に設けられた駐輪スペースで、要は自分の愛車の鍵を外す。
あ、要くんまだいた。よかった
富良野さん。そんなに息切らして忘れ物?
うん、これ
ゆかりの手には初めて会ったときにもらったロリポップが二つ。
今度はちゃんとした味だから。その、愛情込めてないし。オススメの味だからさ
……やっぱり要らない?
不安そうに聞いたゆかりの手から要はロリポップを受け取る。
ありがとう。帰ってゆっくり食べるよ。また一緒のシフトの時はよろしくね
あ、うん! またね!
自転車に飛び乗り百夜街道を走りながら、要はもらった内の一つを口に突っ込んだ。
甘い甘いとろけるようなストロベリー味が今日の疲れを風に流してくれるようだった。