───母さん……

母さんが去っていく、僕を残して行かないで。

一人になりたくない。

───行かないで! もうどこにも行かないで


叫んだ。

声を限りに。

泣き声になった。


母さんは振り向くことはない。

ゆっくり歩いて、

一歩一歩、

少しづつ確実に僕から離れていく。




追いかけようと、立ち上がって、

さあ、早く。


でも体が動かない。

───待って! お願いだから一人にしないで


気がつくと右手に何か握ってた。

なんだ!?










ナイフだった。

刃先が鋭く、そして鈍く光っていた。



───悲しいよ

───また一人ぼっちになるくらいなら

───もう死んだほうがましだ











僕は右手のナイフで思い切り自分の左足を刺した。






大腿部が焼けるように熱い。

鋭い痛みが襲ってきた。


───痛いよ、母さん、死んじゃうよ、助けて!

でも母さんは振り向きもしない。

───聞こえてないの? 


どんどん離れていく。

追いかけないと、立ち上がった。

今度は立てた。

傷口から血がどろどろとふき出した。

左足を引きずりながら歩き出した。

不思議と痛みは和らいでいた。

すこし走ってみた。



───大丈夫だ、走れる!



早く追いかけないと、

母さんが見えなくなってしまう。

走った、全速力だ。

喉がからからだ、

無性に水が飲みたかった。

でも今はそれどころじゃない。

はやく母さんに追いつかないと。


どこからか風が吹いてきた、

すこし元気が出た。


もう少しだ。

母さんに手が届く。


風に乗って母さんの匂いがする。

懐かしい、匂いだった。


追いついて母さんの腕をつかんだ。

───行かないで母さん!

───僕を置いて行かないで!











白いセーター、長くて黒い髪。




母さんが振り返る。

























えっ!? 母さん、……じゃない



振り返ったその顔はトカゲの顔をしていた。

僕は顔を背けた。

見たくない。

母さんじゃない。


綺麗だった母さん。




母さんじゃない。

母さんじゃない。

母さんじゃない。






でもはっきりと顔を思い出すことはできない。



でも

母さんじゃない。

母さんじゃない。

母さんじゃない。






突然トカゲ女が僕に抱きついてきた。









とっさに突き飛ばした。


女が地面にしりもちをついた。


地面に転がった女が喋った。










オマエ、ズット、ヒトリダ……



雑音の混じったひどく
聞きづらい声だった。




うるさい、化け物! 母さんはどこだ!





オマエ、ノ、
カアサン、
モウ、シンダ、
オマエ、コロシタ……



嘘だ!!母さんに会わせろ!!



嗚咽交じりに僕は言った。





トカゲ女はやにわに僕の足に飛びついた。





そして口から長い舌を出して







僕の左足の傷口から流れ出る血をすすりだした。






















僕は化け物を蹴り倒した。




そして持っていたナイフで思い切り胸を刺した。





ナイフは深く刺さり肋骨を折り





心臓に届いたはずだった。























ヤッパリ、オマエ、
ヒトゴロシダ……






トカゲ女が笑う。













僕は狂ったように化け物を刺し続けた。





何度も何度も……





















マスター

おい! ハル、大丈夫か?

ハルト

……



ハルトはうなされていた。



瞑った目から涙がこぼれている。




マスター

おい! 怖い夢でもみてんのか? ハル!

ハルト

……



ハルトは、マスターの声で目を覚ました。





焦点の合わない目で周りを見回した。




窓のない殺風景な部屋、フロアタイルにじかに寝かされていた。




天井の蛍光管が白々しく辺りを照らしている。




対面する壁に堅牢そうな金属製のドアが一枚ある以外何もない薄汚れた部屋だった。





両手は後ろ手に手錠で拘束され、両足首にも足枷が掛けられていた。




マスター

おお、起きたか、えらくうなされてたぞ。怖い夢見てたのか?





マスターも手錠で両手両足を拘束されたまま壁に背をつけている。



マスター

実をいうと俺もさっきまで気絶してたよ。でもここは一体どこだろうな……




マスターはハルトに笑いかけた。


マスター

しかし、我ながら情けないなあ。さっきは何もできなかった。ケンカだけは自信があったのにな、でもあいつは化け物みたいに強いよ……






咳き込みながら、マスターは床に血を吐いた。



血と一緒に吐き出された白い歯が音を立てて転がった。

マスター

くそっ、あのサングラス野郎俺の奥歯をへし折りやがった。口の中も相当切れてるな、ぜんぜん血がとまらねえ……



そういうとまた血の混じった唾を吐いた。

マスター

しかし、ハルには迷惑かけたな、ごめんな、こんなことに巻き込んで

ハルト

……


ハルトは黙ったまま朦朧とした意識の下で、さっきの夢の事を考えていた。





体の芯が震えていた。




オマエ、 ヒトゴロシダ……




ハルトの頭の中でトカゲ女がいった言葉が繰り返し響いていた。






地面の底から聞こえてくるようなくぐもってひび割れた雑音交じりの嫌な声だ。



マスター

痛くないか、頭? 血は止まってるみたいだけど、ハルも派手にやられたな。本当に悪かったな、こんな事になるなんて……


マスターは心配そうにハルトに話しかける。



ハルトの顔面半分には乾いて固まった血がへばりついていた。


右目が凝固した血糊で塞がれてなかなか開かなかった。



体のあちこちに違和感はあったが痛みは不思議とそれほどでもなかった。






ただ忘れていた何かをもう少しで思い出しそうな感覚がハルトの頭の中で渦巻いていた。




しかしそれが何なのか、どうしてもわからなかった。














その時、乱暴に鍵を開ける音がすると、ドアを蹴って金髪の少年が現れた。



金髪は手に持った携帯用のヴェポライザー(吸入器)から吸引した大麻リキッドが気化し発生したミストの爆煙を口から吐き出しながら入ってきた。


部屋中に甘い香りが充満した。



ノガミ

おっ! やっと、おきたね




金髪はそういうと、へらへらへらと笑ってハルト達二人を見下ろした。


そしてヴェポライザーに口を付けると、吐き出した大量の煙を二人に向かって吹き付けた。



マスター

クソ!! てめー、オレの家族はどこだ!!



マスターが叫ぶ。



それを無視して金髪はハルトの髪の毛を掴みあげると、





ノガミ

さっきはよくもボクを殴ってくれたな、結構痛かったよぉ…
で、金属バットの味はどうだった?



















ノガミ

グル(導師)はねえ








金髪がハルトの髪を掴んだ
手に力を込める。


頭の傷口がひらき
顔をしかめるハルト。


流血がハルトの顔面を
赤く染める。




ノガミ

お前ら、ポア(殺害)していいって








トルエンで溶けて
前歯が一本もない
口を開けると黒ずんだ歯茎で
金髪がニヤリと笑った。












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