動揺しているあんなの肩を、スタッフは優しく叩く。

トレーナー

どうにかしろって上司から当たられちゃったんだけど、そんなこと言われたってどうすればいいのやら……

すっかり困り果てた様子でため息を吐くスタッフには、同情を禁じえない。

責を負うべきは、このスタッフではないはずだ。

月城虎子

特殊な職業とはいえ、一人休んだだけで立ち行かなくなるという体制はいただけませんね。ましてやその責任を部下に押しつけるなんて……

トレーナー

まあ、悪い人じゃないんだけどねぇ。ところであなたは?

竜胆あんな

あ、こちらは……えっと、どなたでしたっけ?

あんなが困ったように首を傾げる。

私はそこでようやく、まだ自分が名乗っていなかったことを思い出した。

月城虎子

ああ、申し遅れました……

手に持ったままだった資料を脇に抱える。

そして、名刺をスタッフとあんなにそれぞれ一枚ずつ手渡した。

月城虎子

私は音楽事務所でマネージャーをしております、月城虎子と申します

竜胆あんな

マネージャー、さん……

二人とも目を丸くして、名刺を凝視している。

すると、スタッフがずいと顔を寄せてきた。

トレーナー

あなた!

月城虎子

は、はい?

トレーナー

音楽事務所のマネージャーさんなら、なんとかできないかしら!?

月城虎子

え、は? なんとかって……

トレーナー

どうにかしなくちゃいけないのよ。あなた、こういうこと詳しいんでしょう?

こちらの声を遮るように、捲くし立てられる。

どうにかしなければならない問題だということは理解している。

けれど、なんとかできないかと言われても、情報も時間も足りな過ぎる。

自分は確かに、音楽事務所のマネージャーだ。

だからといって、なんでもできるわけではない。

とっさの判断や対処というものは、綿密に計画を立て、起こり得るトラブルさえも予め想定しておいてこそ成り立つものなのだ。

そもそも、こういうこととは、一体どういうもののことを示しているのか。

思考がぐるぐると渦を巻く。

考えが纏まらず、焦りばかりが募る。

とにかく、何か、何か答えなければ――。

月城虎子

わ、私は……あっ!

慌てて口を開こうとしたそのとき、脇に挟んだままだった資料が滑り落ちた。

伸ばした手は届くことなく、床に落ちた衝撃でクリップが外れ、紙が散らばってしまう。

月城虎子

あ……う……

私はそれを、目で追うことしかできなかった。

視界の先で震える指を、まともに動かすことさえできない。

竜胆あんな

虎子さん

震えている手に、小さく細い指が触れた。

両手で包み込まれ、持ち上げられる。

それを追うように顔を上げた先で、私の手を祈るように握るあんなと目が合った。

竜胆あんな

これ、昔教えてもらった、緊張したときのおまじないなんです

そう言ってあんなは眉尻を下げ、へらりと笑う。

初めてその笑顔を見たときとは異なり、不思議と苛立ちは湧いてこなかった。

むしろ、繋いだ手から伝わってくる温もりとわずかな震えに、意識を奪われる。

私の手だけではなく、それを包み込むあんなの手も震えていた。

当然だろう。

いま彼女は、自分が出るはずだったショーが中止になろうとしているのだ。

アイドルにとって、ひとつのステージにかける想いがいかほどのものか、マネージャーである自分には到底理解しえない。

それでも、あんなは笑っている。

そして、気丈にも私を慰めようとしてくれている。

私はこの子の状況を正そうと勇んでここまできたというのに、何をしているのだろう。

こんな姿を見せてしまって情けないと、心から自省する。

大きく息を吸い、そして吐き出した。

月城虎子

……ありがとう。落ち着いたわ

竜胆あんな

えへへ

お礼を言うと、あんなは赤くなった顔を隠すように俯く。

竜胆あんな

あっ

月城虎子

え?

声につられて床へと目を落とす。

そこではペンギンたちが、散らばる紙束を銜えたり、踏みつけたりしていた。

月城虎子

~~~~っ

予想外の事態の連続に眩暈を覚えて、額に手を当てる。

そもそも、私は動物と接することがあまり得意ではないのだ。

月城虎子

あ、あなたたち、それを離しなさい!

ペンギンたちは私の声など聞こえていないかのように、書類を弄んでいる。

このペンギンたちどうしてくれよう。

教育的指導を下すしかないのかと思案していると、あんなが床に膝をついて、ペンギンたちと目を合わせた。

竜胆あんな

みんな、ダメだよ! これは虎子さんの大事なものだから、返して

そう言って紙を銜えているペンギンに手を差しだすと、ペンギンは口を開いて紙を離した。

竜胆あんな

ほら、踏まないで。足上げて

あんなが指示を出すと、ペンギンたちはおとなしくそれに従う。

ただ懐いているというだけではない。

ペンギンたちは、あんなの言うことなら聞き分けるのだ。

竜胆あんな

よしよし、みんないい子いい子

あんなの褒め言葉を聞いて、ペンギンたちは嬉しそうに鳴き声を上げる。

その姿を見て、私は確信した。

月城虎子

あんななら、ペンギンショーをできるんじゃないかしら?

竜胆あんな

えっ!?

トレーナー

ど、どういうこと?

月城虎子

今見たとおりです。このペンギンたちは、あんなの指示には従っている。本来のプログラムに沿わせることは難しいと思いますが……

これだけ条件が揃っているのなら、回避策がひとつある。

月城虎子

いっそ、ペンギンショーとアイドルショーを一緒にしてしまうというのはどうでしょう?

トレーナー

どうでしょうって……

月城虎子

どうにかするのなら、これが一番の手段です。ショーを中止にして、来てくれた人をがっかりさせるより、多少プログラムを変えてでも実施すべきだと思います。それに……

一度言葉を切って、床に膝をついたままのあんなに視線を向ける。

あんなは戸惑いに揺れた目で、こちらを見上げていた。

彼女はまだ子供だ。

けれど、アイドルだ。

月城虎子

あんななら、できるはずです

真っ直ぐに、あんなの目を見つめ返しながら言いきる。

すると、その瞳の中に、星のような煌めきが宿った。

あんなは勢いよく立ち上がったかと思うと、スタッフに向かって頭を下げる。

竜胆あんな

お願いします! 私にやらせてください!

トレーナー

え、えぇー……

月城虎子

私からも、お願いします。いざとなったら自分が責任を取りますので

あんなの隣に並び、私も同じように頭を下げる。

トレーナー

……はぁー、わかったわ。トレーナーでない子にペンギンショーも任せるっていうのは心配だけど、どうにかしてってお願いしたのは私だものね。上司にかけ合ってみましょ

その答えに、私たちはどちらからともなく顔を見合わせ、笑みを交わした。

ショーのステージは、イルカ用の大きなプールに沿って設置されていた。

客席には、ペンギンショー目当てだろう親子連れの姿が目立つ。

軽快な音楽が流れはじめると、一斉に歓声と拍手が上がった。

竜胆あんな

みなさーん! こんにちはー!

ステージの上に、ヘッドセットをつけたあんなが姿を現した。

竜胆あんな

チェスのことならお任せあれ! 現役高校生アイドル、竜胆あんなです! 今日は予定を変更して、ペンギン&アイドルショーを開催しちゃいます!

あんなの名乗りに、客席がざわついた。

大人たちは互いに顔を見合わせ、どうしたものかと思案しているようだ。

竜胆あんな

さっそくペンギンたちにも登場してもらいますね。みんなー! おいでおいでー!

あんなの呼びかけに応えて、ペンギンたちがステージに現れる。

よたよたと拙く歩く姿に、子供たちが歓声を上げた。

その様子を見て、大人たちも安堵したようにステージへと向き直る。

竜胆あんな

じゃあまずは、ご挨拶からかな。みんなお辞儀して? はい、よろしくお願いしまーす!

あんなの指示に従って一斉に頭を下げるペンギンたちに、観客から拍手が贈られた。

その後も、パフォーマンスを披露するごとに客席の温度が上がっていくのがわかる。

客席とステージが一体になりはじめた頃、あんなの一番の見せ場がやってきた。

竜胆あんな

次は、私が歌いますね! ペンギンさんたちのダンスにもご注目あれ~

イントロが流れ、あんなが歌を披露する。

それに合わせているつもりなのか、ペンギンたちが思い思いに奇妙なステップを踏みはじめた。

観客は手拍子をしながら、楽しそうにステージを見つめている。

月城虎子

…………

その様子を、私はステージ袖から見守ることしかできなかった。

竜胆あんな

虎子さんのおかげで、ショー大成功でしたよー!

スタッフルームに戻るなり、あんなは嬉しそうに声を上げた。

ショーは無事に終わり、ペンギンたちも元の水槽へ戻された。

スタッフたちはまだ後片づけをしており、私たちも手伝おうとしたのだが、先に戻っていてほしいと追いやられてしまった。

あんな同様、スタッフたちも私のおかげだと言ってくれて。
けれど私は、素直に喜ぶことができずにいた。

竜胆あんな

虎子さん……?

不思議そうに目を瞬かせているあんなに、私は頭を下げる。

月城虎子

ごめんなさい

竜胆あんな

え、え? 虎子さんが謝ることなんて何もないですよ?

月城虎子

いいえ。冷静になって考えれば、無関係の私に取れる責任なんてたかが知れているし、あなたに無茶をさせたわ

成功したからいいようなものの、失敗したらどうなっていたことか。

まるで計画性のない、その場しのぎの博打でしかなかった。

私だけの責任で済むのならまだいい。

しかし、もしかしたらあんなのアイドル生命に関わる問題に発展していたかもしれない。

そう思うと、とてもではないが顔を上げられなかった。

竜胆あんな

……虎子さん

低い位置から名を呼ばれ、体の脇に添えていた右手を掴まれた。

その温もりには覚えがある。

伏せていた目を開けると、しゃがみ込んで私の顔を見上げているあんなと目が合った。

資料を落としてしまったときと同じように、右手を両手で包み込まれる。

竜胆あんな

私は、アイドルとしてお仕事ができて楽しかったです。機会をくれて、ありがとうございました

月城虎子

でも、もし失敗していたら……

竜胆あんな

むむ……虎子さん! ちょっとこっちきてください!

あんなは突然立ち上がると、私の手を引いて歩きはじめた。

月城虎子

え……ちょっと、どこへいくの?

竜胆あんな

すぐそこですから!

強引に連れ出された先は、ステージサイドにあるテラスだった。

竜胆あんな

ほら、見てください

私の手を離し、あんなは手すりの下を示した。

そこは、イルカプールを側面から鑑賞できるホールとなっている。

ショーを見終えた客の多くが、まだそこにいるようだ。

子供たちがはしゃいだ声を上げている。

ペンギンさんはいないのー? さっきのおねえちゃんとペンギンさん、もっかいみたい!

そうだね。また今度、ショーをやるときにこようね

不意に聞こえてきた声に、私は驚いて手すりから身を乗り出した。

幼稚園生くらいの男の子が、母親らしき女性に対して、先ほどのショーがいかにすごかったかを話して聞かせている。

その姿を見ていると、胸の中に温かな感情が込み上げてきた。

竜胆あんな

虎子さん言ってたじゃないですか。ショーを中止にして、来てくれた人をがっかりさせるより、やってみた方がいいって

私の隣で同じようにホールを見下ろしていたあんなが、嬉しそうに笑う。

竜胆あんな

ショーを開催できてなかったら、こうしてみんなを笑顔にすることはできなかったはずです。だから、虎子さんがいてくれて、本当によかった……

その瞳には、やはり星のような輝きが宿っていた。

まだ小さな、けれど確かな引力を持つ光だ。

竜胆あんな

私はまだまだ新人で、ちゃんとできなくて怒られちゃうこともあるけど、これからも頑張っていきたいなって思いました

月城虎子

……それならあなたが頑張れるように、私がマネージャーとして支えるわ

竜胆あんな

えっ……

今度は私があんなの手を取り、両手で包み込む。

月城虎子

あなたはちゃんとしたマネージャーさえいれば、アイドル界のトップを目指せる素質がある。その手伝いをさせてほしいの

竜胆あんな

えっと、その、あの……

尻込みしている様子のあんなの手を、強く握り締めた。

そして、真っ直ぐに目を見つめて懇願する。

月城虎子

お願い

竜胆あんな

う……はい、こちらこそお願いします

へらりと、眉尻を下げてあんなが笑う。

おそらく癖になっているだろうその笑い方を見て、自分がしっかり支えていかなければと決意を新たにするのだった。

水族館を後にした私は、さっそくあんなを連れて事務所へやってきていた。

新人アイドルを探しているらしいプロデューサーに紹介すれば、きっと喜んでくれるはずだ。

竜胆あんな

あれ……ここ、見覚えがあるような……

月城虎子

ん? 何か言った?

竜胆あんな

あ、いえ! なんでもないです!

あんなは酷く焦った様子で、目を泳がせている。

今までマネージャーもいないままだったようだし、突然の事務所訪問に緊張しているのだろうか。

月城虎子

そんなに硬くならなくても大丈夫よ。さあ、入って

ドアを押し開け、中に入る。

ここに足を踏み入れるのは半年ぶりだ。

みんな元気でやっているだろうか――。

月城虎子

え……

竜胆あんな

虎子さん? どうしたんですか?
って……え、空っぽ……?

あんなの言うとおり、事務所の中には私が半年前まで愛用していたデスクがひとつ残っているだけで、それ以外には人も、物も、何もない。

完全にもぬけの殻となっていた。

月城虎子

ど、どうして、こんな状態に? プロデューサーは? 里見先輩たちは一体どこへ!?

~ つづく ~

2|第2話 RE:スタート(2)

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