8│正直になれたら

しとしとと降る細い雨を見上げながら、先生は傘をゆっくりと開いた。


美術室に置いてあった傘を借りた私達も、先生に倣って傘をさす。

にゃあ

先生の足元にいる猫が、私達を見上げてひとつないた。

レイン

ありがとうって

私は小さく微笑む。

先輩を盗み見ると、先輩も小さく笑っていた。


さて、と先生は振り返り、微笑を携えて切り出す。

牧野先生

今から話すことは、秘密にしてください。

じゃないと、私はこの学校にいづらくなります

私と先輩は、黙ってうなずく。

先生は微笑んでうなずき返すと、私達に背を向けた。


灰色の空を見上げながら、先生は話を始める。

牧野先生

私の好きな人は、去年卒業した生徒です。藍(あい)という名前でした。

藍色の藍です。

その名の通り、青が好きだとよく言っていました。

美術部の部長で、絵が大好きで、毎日のように美術室に来ていました

さあさあと、雨の音が沈黙を縫う。

雨が降っていてよかった、と私は思った。


その雨は、いくらでも考えていいよ、と先生に優しく言っているようだったから。

牧野先生

……生徒を好きになるなんて、考えてもみなかった。


それはだめだろうと私の脳内で笑う私がいると同時に、止まらない恋心にあきれながらも、肯定しなければと思う私もいました。


結局、勝ったのはだめだろうと言っていた私でした

私の肩に乗っているクロニャが、肩にしがみついている手に力をいれた。

私は黙って小さくうなずく。

牧野先生

ところが、先日久々に彼女が遊びに来たんです。

無邪気に、もう先生と個人的に連絡しても怒られないよね、なんて言って私にアドレスを渡してきたんですよ。


今さらになって、年甲斐もなく期待している自分に気がつきました。


でも、やっぱり、元生徒なのだからーー葛藤しているのです。

彼女を忘れようとして描く絵の中でさえ、無意識に彼女を避けてしまうぐらいに

先生は、振り返った。表情は無い。


ぱしゃ、と先生に踏まれた水が寂しそうになる。

牧野先生

以上が、私の恋の経緯で、悩みの経緯です

いつものように、先生は笑ったつもりかもしれない。


でも、こんなに辛そうな笑顔を、私は見たことがなかった。

牧野先生

いつか忘れられるでしょう

雨音 光

会えるのに

先生の言葉と、先輩の言葉が重なった。

クロニャ

にゃ……?

クロニャが思わず声をあげてくれたから、私は黙ることができた。

それくらい、驚いた。

雨音 光

会えるのに、もったいないですね

先輩の声は、落ち着いていて、それでもどこか冷たかった。

雨音 光

羨ましいです。本当は会いたいのに。


時間が過ぎていく中で、会えなくなることもあるんですよ。

会えるのなら、会えばいいのに。


自分の気持ちを押し込めるのは簡単です。

でも、会えなくなったらその気持ちは、ずっと先生の中に居続けますよ。

それで、どこにもいけないままなんですよ。

後悔ばっかりすることになります

先輩は、先生を見ていたけれど、同時にどこか遠くを見ているようにも見えた。


心配になって、思わず話しかける。

川越 晴華

先輩……?

私の言葉に、先輩ははっと息をのんだ。

我に返ったようだった。

雨音 光

すみません、生意気言いました

先輩の目が泳ぐ。

雨音 光

つい、思ったことを……先生も、いろいろ事情があるのに。俺も感情的ですね

小さく頭を下げる先輩を見て、先生はいえ、と優しく首を横に降った。

牧野先生

……自分の感情にまっすぐで、正直な人間は好きです

先生は、正直、と自分の言葉を繰り返す。

川越 晴華

……それなのに、先生は自分の感情を殺してる

先生は、ええ、と自分の胸に手を当てた。

私の言葉が、先生の心にすとんと落ちて、もしかしたら、少し苦しいのかもしれない。


それでも私は、たぶんこれは先生の求めている言葉だ、と思った。


正直な人間が好きなのに、自分は感情的になれない矛盾に、先生は苦しんでいる。

川越 晴華

先生は、自分の望む方向に、きっと行っていいんです! 

……生意気、ですけど

いえ、と先生は苦しそうに笑って、それから私達に背を向けた。


傘を少しだけ傾けて、空を見上げる。


そのまま、しばらくは黙って、ずっと何かを考えているようだった。




沈黙を、私も先輩も破らない。

レインも、クロニャも、先生の猫も、ただ黙って、先生の決断を待っている。

何分たったかわからない。

先生の傘が揺れて、先生がうつむいたのがわかる。

牧野先生

そのとおりですよ

先生の声は、芯の通ったものだった。

はっきり、しっかり、かみしめるように、言う。

牧野先生

雨音君と川越さんの言うとおりです……感情を、私も出せばいいんですよね。


正直になればいいんです。

会いたいなら、会えばいい。


感情を押し込めているのは、保身のためかもしれませんね。

でも、そうしたら、未来の私が後悔するかもしれない

にゃ、にゃあ、にゃ

先生の猫が、満足そうにうなずいた。

レイン

悩んでいたのが嘘みたいに、今、すっきりしてるって

牧野先生

決めました

先生はふりかえり、無邪気な少年のように歯を見せて笑った。

牧野先生

会いましょう。

連絡してみます、電話をかけます、今すぐに

先生は、私達の間をすりぬけて、傘を閉じる。

牧野先生

二人とも、ありがとう

叫ぶようにそう言って、階段を駆け降りていく。

にゃ!

先生の猫が、先生のうしろを駆けながら、振り向き様にないた。

レイン

感謝してるって

レインがふ、と満足そうに笑っていた。

私は、よかったですね、と声をかけようと先輩に目をやった。


そこで、すべての言葉を、飲み込んだ。


先輩は、眉間にしわを寄せて、凄く辛そうな顔をしていたのだ。


それこそ、気を抜いたら、泣いてしまいそうだ。

川越 晴華

先輩……?

レイン

光、何ぼーっとしてるのさ

レインが、あきれたようにそう言って、先輩の後頭部をぺちりと叩いた。

先輩ははっと目を見開いて、ああ、と困ったように笑った。


それは、ごまかすような笑いにも見えた。

先輩は、何かを思い出していたのかもしれない。さっきの発言が脳内でよみがえる。




本当は会いたいのに。

時間が過ぎていく中で、会えなくなることもあるんですよ。

会えるのなら、会えばいいのに。




もしかしたら、先輩はもう、会えない人がいるのかもしれない。


私と、同じように。


それでも、だとしたら、その部分は触れてほしくないはずだ。


だから。

川越 晴華

よかったですね、先生

雨音 光

ああ……ね。うん、よかった。

恋って素敵だね

先輩の笑顔が、少しずついつもの笑顔に戻る。

雨音 光

何かと思ったよ、俺達だけの秘密にしてほしいっていうから。どんな話が飛び出すのか、緊張した

川越 晴華

ですよね! 


まあ、今でもどきどきはしてますけど……先生の恋、うまくいけばいいです

雨音 光

そうだね

そう言った先輩の笑顔は、もうすっかりいつもの笑顔だ。

よかった、とほっとしていると。

雨音 光

また、俺達だけの秘密が増えたね

誰もいない屋上で、先輩はわざとらしく小声で言った。

いたずらっ子みたいな笑顔を携えて。


俺達だけ、なんて、そんなの……ずるすぎる。

川越 晴華

秘密、まだまだ増えればって……思います!

いつも翻弄されてばかりなのだからと、反撃のつもりで放った言葉だった。


それは、放った瞬間、言うだけで恥ずかしい言葉に早変わりしてしまった。

雨音 光

あはは、そうだね

笑いながらうなずく先輩は、いったいどんな気持ちでその返事をしてくれてるのだろう。


私の心臓は、ばかみたいに高鳴っている。もう、限界だ。

話を変えないと、心臓がもたない。

川越 晴華

あ、そういえば、クロニャのリボンの話、するタイミング逃してたね

ということで、クロニャに、逃げる私。

クロニャ

そうですにゃあ! 

今から行くのもなんですしにゃあ

川越 晴華

明日行こうよ、偵察がてらさ

クロニャ

そうしますかにゃあ

レイン

僕も行きたいです

レインが会話に混ざってきたのは、偶然か、それともレインも私の気持ちを察してくれたのか。


ちらりとレインを見ると、目の合ったレインが口の端をくいとあげてにやついた。


……見透かされている!

レイン

この黒猫、センス悪そうだから、一緒に選んであげないと。

あ、晴華さんのセンスが悪いって言ってるわけじゃないですよ

クロニャ

にゃんでそう腹のたつ言い方ばっかりするのにゃああ! 

着いてきたいって言えばいいのにゃあ!

いつものようにぎゃあぎゃあと叫ぶ二人を見て、私は思わず吹き出した。

私の横で、先輩も小さく笑っていた。

ほっとする。

川越 晴華

先輩の笑顔が、私は大好きなんだ……って、これって

もしかして、という考えが浮かんできたけれど、今はそっとしまっておこうと、考えるのをやめた。


まだ、考えるときでは無いような気が、なんとなくするのだ。

次の日、美術室に先輩と入るや否や、先生が小走りで駆けてきて

牧野先生

会えることになりました!

と報告してくれた。


大人も、恋をするとこんなに無邪気になるのか、なんて思って、おかしくなってしまう。

川越 晴華

よかったですね

牧野先生

ええ、二人のおかげです。

本当にありがとう

川越 晴華

いえいえ。そうだ、今日はーー

リボンをもらいに来たんです。

そう言う前に、何の気なしに美術室の扉の方を、向いた。
 



扉の外にいた人と、一瞬、目が合う。


はっ、とその子は眼鏡の奥の目を大きく見開いて、そそくさとその場からいなくなってしまった。

川越 晴華

あれ……どうしたんだろ

牧野先生

――今日は、どうしました?

先生の言葉に、私は引き戻された。




リボンの話をしながら、さっきのことは明日にでも聞いてみればいいか、なんて安易に考えてしまっていた。

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