ぼんやりと空っぽの店内を眺めるのに飽きた頃だった。

 待ちに待った客が自動ドアの入店音を鳴らす。入ってきたサラリーマンは少し怯えた目で要の方を窺いながら、雑誌コーナーへと足を進めた。

いらっしゃいませー

ひっ!

あれ、声が大きすぎたかなぁ。それにしてもなんか変だな、あの人。さっきからこっちをチラチラ見てるし、エロ本買いにきた中学生でもあるまいし

 目的の雑誌があるのだろうが、しきりにこちらを気にしていてそれどころではないようだ。

 時折体を震わせている様子はひどく憔悴しているようにも見える。

サラリーマンって大変なんだなぁ。それを思えばここに立ってるだけで給料をもらえちゃう自分は楽なものなのかな

 手元のレジを見て教えてもらったレジ打ちの手順を思い出す。

タバコを頼まれたら番号を聞いて、肉まんとかは値段を打って。よし、大丈夫

 一人指差し確認を終えて、またたった一人の客に視線を戻した。

 サラリーマンは生まれたばかりの小鹿のように脚を震わせて少しずつ前に進んでいる。

 そこまできて能天気を地で行く要もさすがにおかしいと気付いた。

もしかして具合が悪くなったとか? あのー、すみません

ひえっ

驚かせてしまいましたか? すみません

ち、近付くな!

え、でも顔色がすごく

と、とにかく近付かないでくれ!

そうは言いますけど

これ。これ買って帰るから。だからとにかくこっちに来ないでくれ

わわっ。わかりましたけど、本当に大丈夫ですか?

 そう言いながら、要がもう一度サラリーマンに近付いた時だった。

 外からの突然の轟音に向かって振り向く。

 店の前の駐車スペースに向かっているとは思えない速度で大型トラックが走りこんでくる。

 スローモーションのようにはっきりと見えた要の視界には驚きの表情を浮かべる運転手の顔が映った。

ぶつかる!

 避けるなどということは不可能だ。さっきから両足が痺れたように動かない。

 世界がゆっくりと進んで見えるのに、自分は全身が水中に沈んだようにもがこうとしてもうまく動けない。

誰か、助けて!

 目を閉じて念じた願いを叶えるように要の後ろから黒い何かが蠢いた。

 幾本の黒い棒が高速で伸び、ガラス壁を覆うように立ちはだかる。

 ガラスの砕けた音が聞こえ、追いかけるようにマガジンラックがへし折れる音が響く。

と、停まった?

 ゆっくりと要が目を開けると、目の前が真っ黒な触手で覆われていた。

 タコやイカのような軟体動物のものではない。鞭のような太くしなやかな柔らかさをもち、薄く液体をまとって黒光りする見たことのないような代物だ。

うわあぁぁぁ!

 その触手の発生源を見たサラリーマンが絶叫を上げる。腰の抜けた要はまだ後ろを振り返ることが出来ない。

やっぱり、やっぱりここは幽霊コンビニだったんだ!

幽霊、コンビニ?

 要の疑問に答えるわけもなく、よろめきながらサラリーマンは店から飛び出していく。

百手

せっかく久しぶりのお客さんだったのに。逃げられちゃったか

 その背を見送ってから、要は恐るおそる後ろを振り向いた。

百手

怪我はないかい? 高橋くん

店長、その、店長の背中から

百手

これかい? そうだね、私の腕、とでも言っておこうか

腕って。これのどこが

百手

人間でなければこんな腕を持っている生き物だっているさ

幽霊コンビニって、さっきのお客さんが言ってたのは

百手

私は幽霊ではないけどね。そういう生き物ってことさ

 百手は黒い触手を背中にしまうと、ゆっくりと要に向かって歩いてくる。

あ、あ

百手

動かないで

あぁ、このまま俺、食べられるんだ。触手だから溶かされるのかな。痛いのは嫌だ

百手

ほら、この辺りまだガラス片が飛び散ってるから。片付けちゃうからさ

え?

 背中に全て収まったと思っていた触手を数本伸ばして、百手は要の周りに飛び散っていたガラス片を拾っていく。その早さは人間の何人分になるだろうか。

だから店長一人で店を回せるんだ

百手

そうだよ。すっかり幽霊コンビニの噂がこの辺りで広まってるからね

それでお店にお客さん来なかったんですね

百手

そう。それで私以外の人がレジに立っていればお客さんも入ってくると考えたんだけどね。うまくいかないものだよ

そっか。だからあのバイトのチラシ、条件がいいのに誰も応募しないんだ

 要は大学の友達がいないので知らなかったが、このコンビニが幽霊コンビニだという噂は当然新入生の耳にも入っているのだろう。

 目に付く大きなガラス片がなくなったところで、ようやく抜けていた腰が治った要が立ち上がる。まだ夕陽に反射して床に細かなガラスが落ちているのがわかった。

百手

それじゃお店もこうなっちゃし、高橋くんは帰っていいよ。あ、お給料を渡さないと。もしお願いを聞いてもらえるなら、辞めた後も私のことは黙っていて欲しいんだけど

 百手の言葉など聞いていないように歩き出した要はそのままレジの方に向かい、奥からモップをもって戻ってくる。

何言ってるんですか、手伝いますよ

百手

え、本当かい? でもどうして?

どうして、って今さっき助けてもらったばかりじゃないですか。それなのに店長のこと放っておけませんよ

百手

た、高橋くーん!

そんな泣かないでくださいよ。まだガラスも落ちてて危な、って店長!

手、触手出てますって! 俺の体に巻き付けないで! しかも何か粘液みたいなの出てる! 待って、やめてー!

 トラックも受け止める触手たちから要が解放されたのは、背骨が折れるほんの数秒前だった。

一話 百の腕を持つ英雄(後編)

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