6│足りない何か

晴華

先輩、私、気になる人がいるんです!

雨音光

……うん?

川越 晴華

あれ、先輩、もっと喜んでくれるかと思ったのに

クロニャが、画面を覗き混んで首をかしげる。

クロニャ

もっと詳しく伝えた方がいいですかにゃあ?

なるほど、確かにと思って、急ぎ足で詳細を入力する。

晴華

先生なんです! 
美術の。牧野先生って、ご存じですか? 

私、仲がいいんですが、最近元気なくて……。

ずっと気になっているので、明日一緒に美術室行きませんか?

雨音光

え、俺行っていいの?

晴華

もちろんですよ!

川越 晴華

先輩、なんで遠慮してるんだろね

クロニャ

わかりませんが、気遣いしてくれているのかもしれませんにゃあ

川越 晴華

なるほどねえ。

元気ない人にはじめましての俺が会いに行くのも、とかかなあ。いい人だねえ

雨音光

じゃあ、明日行こうか

雨音光

……隣でレインがにやにやしてる。

なんか、代わってとか言うから代わるね

クロニャ

げ!

クロニャが顔をしかめた瞬間、通知がくる。

雨音光

今日思ったんですけど、そちらの黒猫さん、今のままだと他の猫と見分けがつきにいですよね

雨音光

リボンとかつければ見分けがつくと思います。それだけです。さようなら

クロニャ

……にゃんにゃんですかあいつはー!

クロニャ、絶叫。私、爆笑。

川越 晴華

あはは、クロニャ、にゃんにゃんですか、ってかわいい!

クロニャ

にゃー!

な、ん、な、ん、ですかあ!

頑張れば言えますもん!

二人できゃいきゃいしゃべっていると、返事をする前にもうひとつ通知がくる。

見てみると、先輩からだった。

雨音光

ごめん本当つっけんどんで……たぶん、リボンが似合うと思うからつけてみたら、って言いたいんだと思う。俺も賛成だよ。

レインも耳にピアスしてるでしょ。

見分けじゃないけど、そういうのっていいと思う

雨音光

じゃ、また明日

川越 晴華

リボンね! いいじゃんクロニャ。

明日、美術室にリボンがあったらもらおうか

と、リボンのことに夢中になって、先輩の最後の一行を見落としていた。


また明日、っていうのは、また明日、朝から黙視確認するよ、そのときね、ってことだったんだ。

川越 晴華

先輩、朝のあれ、噂になってますよ

放課後、先輩と美術室前で待ち合わせして、まず第一に私はそう言いはなった。

はは、と先輩は愉快そうに笑っていた。

川越 晴華

なぜ、そんなに爽やかに笑う……

川越 晴華

帰り際のも目立ってましたよ。

趣味だなんて嘘でしょ

雨音 光

嘘だよ。上から猫を見てるの。

それで、困ってる猫がいないかなって

川越 晴華

……人助けのために、上から見てたんですか?

雨音 光

そうだよ。

まあ、かといって助けられるような人を見つけるのは、難しいんだけどね

人を助けるために猫見の力を使っている、と先輩は言っていた。


どういう事情かはわからないけれど、困っている人を見つけるのは、確かに大変なことだろう。

見つけたとしても、助けてほしい人ばかりではないだろうし。

川越 晴華

先生はどうかわかりませんが、元気になってくれればなって、思います

頼りがいのある後輩のような言葉が言えたかな! と思ったけれど、先輩は眉をぎゅっと寄せて、

雨音 光

……川越さんの気になる人だもんね

と呟いた。


どういうことだろ? 

レインが先輩の肩の上でにやついているのも、なんでだろう?

川越 晴華

……行きます?

神妙な顔つきすぎる先輩がうなずく。


少し心配だったけれど、もしかしたら新しい先生に会うから緊張しているのかもしれない。

ようし、笑顔で!

川越 晴華

失礼しまーす!

牧野先生

はーい

美術室の隅にいた先生が、振り向いてああ、と微笑む。


偶然にも、美術室には先生しかいなかった。

牧野先生

川越さん、こんにちは

川越 晴華

こんにちは! 

先輩が、美術室を見てみたいっておっしゃるので来ちゃいました

私の後ろをついてきていた先輩は、先生に向かってこんにちは、と丁寧にお辞儀をした。

先生も、こんにちはと柔らかく微笑んで、頭を下げる。

雨音 光

三年八組の雨音光です。

最近転校してきたので、まだここの学校の美術室、見たことがないなと思って

牧野先生

ああ、雨音君、屋上の

雨音 光

ご存じでしたか……いつもお騒がせしてすみません……

牧野先生

いえいえ、趣味だと聞いていますよ。屋上は景色がいいですからね。

ここはどうかわかりませんがどうぞ、ゆっくりしていってくださいね。

私は棚の整理をしていますから、いつでも声をかけてくださいね

先生は笑って、いそいそと教室の隅に戻っていった。


私は、なるべく先生から離れた位置に移動すると、どうでしょう、と先輩に訊ねた。

クロニャ

ぱっと見た感じでは、元気そうな先生ですけどにゃあ

クロニャの言葉に、ふ、とレインが笑う。

レイン

猫、見てないだろ

クロニャ

にゃ、そうでした

レイン

おバカにゃのか、君は

クロニャ

うるさいにゃあー!

肩の上で猫パンチを繰り出すクロニャ。

颯爽と避けて舌をつきだすレイン。


あーもう、この二人は! かわいいからいいけどさ!

雨音 光

窓の外、ずっと見てたね

先輩が、ひそひそと言った。私は、静かにうなずく。

入ってすぐ、先生の猫を探した。

先生がこちらに歩み寄ってきたときにも、もといた位置に戻ったときにも、先生の猫は微動だにしなかった。


ずっと、外を見ていた。

川越 晴華

何か、外にあるのでしょうか

雨音 光

今までの経験から推測するだけだけど、たぶん、会いたい人がいるんだと思う

川越 晴華

会いたい、人?

雨音 光

そう、あの猫は、窓の外を見ているって言うより、外に出たくてああしてるんだ。

窓の外を見ているんだったら、視線が動くはずだろ。

でも、あの猫はぼんやりと一点を見ていた。


本当は、今すぐにでも外に出て、どこかに行きたいか……誰かに会いたいか

川越 晴華

なるほど

私はくるりと百八十度回転して、整理整頓をしている先生に声をかける。

川越 晴華

先生、質問です! 

もし先生に時間があるのなら、どこに行きたいですか?

レイン

単刀直入だなあ

クロニャ

単刀直入ですにゃあ

同時に言う、レインとクロニャ。

そしてお互い睨みあい、まねするなあ! と叫んでいる。

もちろんスルー。

川越 晴華

私、一年の頃に、家からすぐに行ける海の絵を描いたんです。

今、そのことを話していて、海に行きたいなあ、なんてことを話していて。

先生は時間があればどこに行きたいかなあって

牧野先生

んー、そうですねえ

先生は振り向いて、眉を寄せる。


どうでもいい質問なのに、先生は真剣に考えてくれる。

そういうところが、とても素敵な先生だなあと、いつも思う。

牧野先生

私は、時間があるならやっぱり、絵を描きたいかもしれません

先生がはにかむと同時に、先生の猫がちらりとこちらを振り返った。

にゃあ……にゃ

何かを言った。


素敵だなあ、と相づちをうちながら、レインの通訳に耳を傾ける。

レイン

でも最近うまく描けないんだって

レインが首をかしげる。


そこで、そういえばと思いつき、話を続ける。

川越 晴華

先生、そんなに絵が好きなんですね……でも私、先生の絵ってあんまり見たことありません

牧野先生

そうでしたっけ

川越 晴華

はい! 先生の絵、見たいです

と言った。

先生の表情に、一瞬だけ戸惑いの色が混じって見えたのは、たぶん気のせいではないだろう。


しかし、その表情はすぐに消え、先生の表情はすぐに、にこやかなものに戻る。

牧野先生

いいですよ

先生は美術室の奥から、一枚の絵を持ってきて、先輩に手渡した。

雨音 光

先輩が素直な感嘆の声をあげ、私にほら、と見せてくる。

川越 晴華

わー!

思わず私も声をあげてしまう。


それは、一輪の花の絵だった。

夕焼け空に向かってぐんと背を伸ばす、桃色の花。

雨音 光

きれいだね

先輩が、小さく言った。


ちらりと先輩を見ると、優しく微笑んでいる。

川越 晴華

こんな優しい表情もするんだなあ……

思わず見とれていると、じっと私を見る猫ちゃんがいた。


レインだ。

無表情でこちらを見つめている。


何よー!

牧野先生

ありがとうございます。それと、これとか

次に手渡された絵は、船の絵だった。


赤色の花の上に浮かぶ、白い船。


その次は、麦わら帽子をかぶった男の子、緑で埋め尽くされた森の中で、一人、緑に隠れてしまった空を見つめている。

川越 晴華

飾っておけばいいのに!

牧野先生

まだ、未完成ですからね

川越 晴華

そうなんですか?

牧野先生

ええ……絵は無限ですが、完成したときにわかるものです。

これだ、ってね。

どの絵も、まだ何かが足りないんです

川越 晴華

だから、先生元気がなかったんですね

先生は顔をあげて、困ったように笑った。

牧野先生

ばれてましたか

そのときだった。

にゃあ、にゃあ

先生の猫がもう一度振り向いて、少し寂しそうに、ないた。

レインが眉間にシワを寄せて通訳する。

レイン

それだけじゃないけどね、ってさ

私と先輩は、目を見合わせた。

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