あれから三日後。東屋轟が意識を取り戻した。それだけでも朗報なのに、鍛え方が違うのか、歩けるようになるまで一か月も掛からないとまで診断された。
嬉しさのあまり、杏樹は轟の太鼓腹に頭をぐりぐりと押し付けた。
あれから三日後。東屋轟が意識を取り戻した。それだけでも朗報なのに、鍛え方が違うのか、歩けるようになるまで一か月も掛からないとまで診断された。
嬉しさのあまり、杏樹は轟の太鼓腹に頭をぐりぐりと押し付けた。
もぉおおおおおお! 心配したんだからね!
大変心配をかけて申し訳ないっす
轟は杏樹の背中を撫でると、次に浮かない顔をしていた紫月を見上げる。
話には聞いてる。よく頑張ったな、紫月
……ええ
どうかしたか?
いいえ。ちょっと疲れてるんです
そうか。しばらく休んだらどうだ?
そうします
苦笑する紫月であった。
お元気そうで何よりです。じゃ、俺は先に帰ってるんで
おう、ご苦労
終始落ち込んだまま、紫月は病室を辞した。
しばらくして、轟は梨の皮をナイフで剥いていた玲に訊ねる。
おい。あいつ、何があった?
斉藤久美さんが下の階の個室に運ばれたって話は聞いてる?
ああ。さっき蓮村さんが来て――って、まさかお前ら、嬢ちゃんの病室に行ったのか?
ええ。とりあえず、様子見のつもりで
どうなった?
面会謝絶に決まってるでしょ。彼女がどんだけの被害を受けたと思ってるの
斉藤久美の命に別状は無かった。でも、心に受けた傷は一生癒えないだろう。
彼氏の死と、性的暴行、加えて入間から打ち込まれた強力な媚薬。精神崩壊を促すには充分過ぎるダメージだ。さっき会った医者の話によると、彼女は有り体に言って廃人寸前の状態にあるという。友人や知人どころか、家族にすら会える精神状態ではない。
杏樹は部下二人から目を逸らしつつ言った。
彼女の件についてはこちらにも責任の一端がある。特に、実際に証拠集めをやってしまった紫月君には相当堪えたと思う。今後はきちんと仕事は選ばなきゃね。入間の言う通りにせざるを得ないのは癪だけど
紫月君、大丈夫かしら
玲の面持ちが沈み込む。
あの様子だと、立ち直るのに相当時間が掛かるように見えるんだけど
あいつなら大丈夫さ。何せ、俺達の末っ子だからな
轟は心配するどころか、むしろ期待するように言った。
あとは、まあ……きっかけ次第じゃねーの?
全ては入間のせいだ、などと被害者面はしていられない。こちらが受けたダメージもダメージと思ってはいけない。そうやって逃げる権利は、いまの黒狛には与えられていない。
だからといって、いまの斉藤久美にしてやれることは、こちらからは何も無い。
いまの自分を的確に表す言葉があるとするなら、それはまさしく「無力」だ。
おい、兄ちゃん
後ろから肩を掴まれた。いま紫月の背後に並ぶのは、チンピラじみた格好がやたらに目立つ三人組の若い男達だった。推定年齢は大体二十代後半くらいか。
何か育ちが良さそうじゃん。お父さん何やってんの?
つーか、お金くれない? さっきパチンコに負けちゃってさー、ちょーっと困ってるんだわ
三万くらいで良いからさぁ
いい年こいて子供相手に金を無心するとは。こいつら、単なるクズか。
……金が無いなら働けよ。大人は皆、そうやって生きてる
あ? なに、このガキ? うっぜ
ちょっとさあ、君ぃ。大人のルールって奴、理解してんの? 年下のガキンチョはさぁ、年上のお兄さんの言うことは絶対聞かなきゃいけないの
それ以前に、君達は社会のルールを理解しているのかね?
いきなり現れた名も知れぬチンピラ風情より、いきなり登場した見知った人物の方が目にした時の衝撃は大きかった。
貴陽青葉が、何故かチンピラの背後で偉そうにふんぞり返っているのだ。
あ? 何か言った、お嬢ちゃん
つーか、すっげぇ可愛いじゃん
おわ、ちっこいのに体エロッ!
よく言われる。さて……
早速、青葉のハイキックが真ん中の一人を瞬殺する。
話を戻そう。本日の議題は社会のルールについてだ
このチビ!
人の話を聞け
今度は紫月が右側の一人の頭を鷲掴みにして、石畳の地面に顔面を叩きつける。
お前らモテないブ男が、こぉーんな可愛い女の子とお喋りする機会なんて、そう滅多に訪れるもんじゃないだろ?
や~だ~、葉群君ってば~。そんなに褒められたら、青葉困っちゃ~う
てめぇこのヤ――
寄るな
来るな
最後は紫月と青葉の同時攻撃。裏拳で残り一人の頬を挟み撃ちにする。
これにて全員撃退。用いた労力は最小で済んだ。
良い運動になったな
青葉が肩をぐるんぐるん回しながら言った。
ところで、平日の昼間にも関わらず、君はここで何をしている? 学校はどうしたね
サボってきたんだよ。学校に行く気分でもなかったし
奇遇だな。私もだ。それより、さっさとここを離れよう。さっきから周りがうるさい
ここは彩萌第一高付近とはまた別の商店街で、この時間帯は老人や主婦の方々で賑わっている。いまの騒ぎが引き金になり、遠巻きから決して少なくない野次馬がこちらに如何わしい視線を向けていた。
さすがに居心地が悪い。ここは青葉の案に合意して、二人は駅の方角へ走った。
やがて、駅前の噴水広場に辿り着く。
やれやれ、ちょっと疲れたぞ
君が最初に手を出さなきゃ、俺がもっと穏便に解決してやったものを
驚きだな。君にそんな技量が備わっていたなんて
若干小馬鹿にしたように言うや、青葉は噴水の淵に腰を落ち着けた。
ちょうど、私がここらへんに座っていた時だったかな、君と最初に会ったのは。ねぇ、紫月お兄たま
やめてくれ。あれは俺の黒歴史だ
お兄たま、お腹空いたからお昼ご飯おごってー
分かった。分かったから、その呼び方はマジでやめてくださいお願いします
ふむ、苦しゅうない
いつも以上に偉そうな青葉様であった。
そういえば、一個質問
何だよ
さっきからずっと浮かない顔をしている。何かあったか?
そういう君はいつも以上にノリが軽い。何かあったか?
いつも以上……か。もう、それぐらい会っているんだな
青葉は懐かしむように言った。
なーに、大したことじゃない。最近、産みの親に会ったばかりなんだ
良かったじゃん
何一つ嬉しいことは無かったよ
若干、彼女の表情が沈み込む。
パンドラの箱には世界を呑みこむ災厄と、たったひとかけらの希望が詰め込まれていたという。ひょんなことから箱を開けて数多くの災厄を引き出してしまったが、代わりに自分が何者かを知ることが出来た。正直、微妙な心境だよ
そうか
希望があるだけまだマシだろ――だなんて無粋な反論を投げかける気にはなれない。
自分には、その権利すら与えられていないのだから。
希望があるだけ、まだマシだろって顔をしているな?
見抜かれていた。何で彼女はこうも鋭いのだろうか。
君はよく顔に出るタイプだろ
悪いかよ
ああ、悪い。そういう奴に限って、顔に出たって誰にも話す気にはなれないタイプだ
青葉は立ち上がると、たおやかな指先を紫月の頬に添える。
話せないことがあるならそれでもいい。誰にだって秘密の一つや二つくらいはあるだろう。でも私個人としては、君にそんな辛そうな顔をされると、私も辛い
それは俺のことが好きって言いたいのか?
さあな。自分でもよく分からんよ
青葉が年不相応に老獪な微笑みを浮かべる。
でも、これだけは言えるかな。辛いことがあれば、乗り越えればいい。その為の力なら貸してくれる人はいるだろう? この私も含めて
慰めのつもりかよ
体は小さくても心はビッグだからな。それぐらいの余裕はある
この時、紫月は「絶対この女には敵わないな」と思わされた。
でも何でだろう。不思議と悔しくないし、すっと気持ちが軽くなったような気がする。
……とりあえず、昼飯にしようぜ。君が奢れって言ったんでしょ
よし。じゃあ、駅前のラーメン屋へ行こう。あそこなら学校をサボってきた高校生カップルも快く受け入れてくれるだろう。何なら餃子のサービスだってあるかもしれん
さすがにそう何度もサービスしたら店潰れるって
分からんよ? 意外に繁盛してるかも
それから二人はごく普通の若い男女みたいに、会話を交わしながら並んで歩いた。
でも、普通の若い男女みたいに笑わなかった。
青葉は元から無表情で、いまの紫月は快活に笑えるような精神状態ではない。
でも、いまだけは、それで良い気がした。
お? 何だか良い匂いがする
当然だ。そろそろ店の前だからな
違うよ。俺のすぐ隣で、とっても可愛い女の子の匂いがする
私を口説こうったって、そう簡単には落ちないぞ、このおバカめ
いつの間にか、二人の足は件のラーメン屋の前で止まっていた。
ちなみに今日は、新作チャーハンの小丼がラーメンとセットで二人に提供された。
もしかしたらあのスキンヘッドの店主は、自分達を使って新作メニューの実験をしたかったのではないかと、紫月と青葉は店を出た直後に邪推したのであった。